それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

現実は,いつも予想を超えてくる。

他人が私の人生を決めてるかのように生きてきた。

 

周囲の大人に反対されて行きたい学部に行かなかったり,院で周りが外国人ばっかだったから英語まみれの生活になったり,お茶してる人と付き合えば「お茶生活も延長だな」とか思ったり。

でも,誰かのせいでこの人生を生きているかのような言い方をするのはおかしい。


そんなとき,インスタの海外のフォロワーに「英訳つけてくれてありがとう」とか「文章読むの楽しみにしてます」って言われると本当に,自分以外の誰かがこのお茶生活を続けさせているのだと感じる。

 

毎日のSNSの投稿も,たまにダイレクトに感謝されることがある。
お茶碗を貸してくださってる作家さんの茶碗をインスタに載せていると,作家さんが写真をリポストして,それがどうやらおバズりなさった。作家さんからフォロワーが一日で一気に増えたと連絡があり,今日もリポストなさっていた。

感謝も評価もされなくてもお茶を続けるだろうと思う私は,単に3年前の自分一人で点て続けていた頃を思い出す。


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学部での反省もあり,大学院はお茶の研究のためだけに選んだ結果,英語ばかりの生活になった。1個の選択の後には外的に見える要因が生じる。でも細かく見ていけば,全てが自分の意思を含む。問題は,それを自分が選んだと腹を括れるか括れないか。

 

よく分からない学問領域2つで身につけた知識と英語と,先生もおらずほぼ独学のお茶と写真。変に心配しなくても,自分が選んだもの同士,伏線は絡みまくっているのだろう。繋げようと必要以上に力んだりしなくても。


だから,このままならない人生は,自分が選んだもの。同時に,自分以外の誰かのおかげで,望ましい生き方ができることだってある。

そういう意味で,人生はだいたい,私の期待も予想も超えてくるのだ。