それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

『ママは日本へ嫁に行っちゃダメと言うけれど。』

 

mama-dame.com

 

見ました。モギさんと台湾人のリンちゃんがFacebookで出逢った実話に基づく映画。彼ら(本人)のFacebookページ自体は見たことなかったけど,2人のことはなぜかよく存じ上げていた。 

モギさんは中国語が全然できなくて,映画の中のリンちゃんは日本語検定でいうとN2ぐらい。友人にはなれるし,深い話はしようと思えばできるかな,という語学レベル。先ほど彼らのFacebookページで確認したところ,現在のリンちゃんはやはりかなり日本語が上達してる。

 

少女漫画を見てるようなやり取りは,実話だと思って許すとして(褒めてる)。「すごいな,人間って出逢ったら好きになるもんなんだな」というのが一番の感想。お互いにとってより適した人は他にも絶対いると思うけど,出逢った後は好きになっていく一方で。

でもリンちゃんからのプレゼントのシーンとか,かなり効果的に描けてると思う。ここで「好き」って思うの分かるわ〜とか。詳しくは話さないけど,現実に起こってる「今」を肯定できるときって,目の前にいる人(たち)を好きなときなので。

私は「起こったことは正しい」という価値観の人なので,出逢った人間と生きていくしかない,ということは受け入れてはいる。理由は後付けなんだろうなと(好きになる理由も嫌いになる理由も)。

 

彼らのデートシーンは,とりあえずずっと走ってる。乗り物でとか,実際に足で走るのはもちろんのこと。20代(モギさんは30歳?)2人が仲良くしてる描写として「追いかけっこ」を採用してる。デートって,走るものなんだ,みたいな。

ヘビーな映画ではないので,価値観のぶつけ合いとか,脳みその殴り合いとか一切無い。楽しい〜!!=好き〜!!っていう明快さ。「この人と合わないかも…?」って思う余地を極力排したような。人間疑い始めるといくらでも疑えるから。

 

そういう走り回るデートを見て思ったのは,人間が2人集まってできることってなんだろうか,ということ。

台湾の自撮り文化も合いまって,実際のリンちゃんはめっちゃ写真を撮るし,モギさんもノリノリで。映画を見た後に二人のFacebookページを見たら,「こんなに一緒にふざけてくれる人,もう見つからないかもしれない」って,この前の投稿でリンちゃんが言ってた。

なるほどなと思って,自分を省みる。自分が楽しくてやってることを,一緒に楽しんでくれる人って,そんなにいなかったなと。

 

例えば私が都内とか観光地とか,周りに人がいてもお茶を点て出すと,当時付き合ってた人には他人のフリをされてた。相手がいくら居づらそうにしてても,私は点てるのをやめなかったし,その人といることの方をやめた。

そこに,夜の都内で,ストールをさっと地面に敷いて「Please sit」って言ってきて,シャドウ点前(シャドウボクシングのお茶版)をする人が現れた。私は「いた」と思った。それまでは,お茶を点てる自分が悪いのだと思わされてたけど,世界には自分と似たような人がいて,日本で出逢った。

 

 

お互い第二言語だけど,私たちは口数も多くて理屈っぽいので,脳みその殴り合いも散々してきた。価値観をぶつけておくことは,将来不幸にならないために必要なこと。でも逆に,走ったり,写真撮ったり,お茶を点てたりするしか,幸せになるためにできることが無いとしたら?

 

 

ひたすら楽しいゆるふわな恋愛映画かと思えば,「走る」「写真を撮る」といった言葉少なな行為の雄弁さを感じた。人間は小さくて,お茶を点てるぐらいしかできないけれど,人間が2人いてできることを軽んじたくないな,と思う。

 

ちなみに。国際恋愛や多国間カップル映画は,イギリス男子と中国女子の『僕と世界の方程式』(私の感想はこちら),ニューヨーク男子とインド女子の『Hank and Asha』など好きです。『Hank and Asha』は1時間のショートフィルムなのでDVDや日本語字幕は無い気がしますが,私は機内で4回見た。エンディングの曲は今でも聴く。