それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

地獄の釜の湯で茶を点てるような。

 

修論の締切1週間前,指導教官から返ってきた論文には,「簡潔に」と「意味不明」というコメントしか残されていなかった。指導教官はページ数のことばかり言っていて,右端のスクロールバーを見て記事を閉じる人のように,私の論文など読んでいなかった。加えて,「何も書き込みがないところは,意味が分からなくて読むのを諦めたところです」と言われた。空白のページから察するに,指導教官の直帰率は75パーセントぐらいだった。未公刊の修論なんて,存在しているだけのホームページのように,指導教官が読まなければページビューは0だ。

しかし指導教官は「(この読んでない部分を)私に読ませてください」と言った。

「もうこれ以上足せないってぐらい完成させたものを出せ」と言われて,自分でも10万字に絞って提出して読まれなかったその時点で締切1週間前。それから4万字は削り,意味不明と言われたところを1万字書き足し,合計して30ページは減った。あの一週間は,私の知ってる168時間ではなかった。

  

こうして生まれ変わった最終稿は,ようやく指導教官に全文読まれた。口頭試問では「ポエティックな表現が得意なようですが…」「逆説を展開すべきところで,いつまでも『しかし』が出てこない文章」「何かいいことを言っているけど意味が分からない」などと,ブログの感想みたいなことを言われた。意味不明にも関わらずいいことを言ってるって分かるなら,充分に文章の役割を果たしてる気がする。ともかく,自分が問題児だったことをすっかり忘れていた。

一般に大学院とは,秀やらAやらいい成績しか取ったことのないような,お勉強の得意な人が行く場所ということになっている。私の場合は,できない科目の成績はギリギリ単位がもらえる程度だった(特にフランス語とか。今考えると伏線でしかない)。その証拠に,高校・大学・留学と,落ちることができるものはだいたいコンプリートした。決して優等生の歩く道ではなかった。

 

 

指導教官が「いびつ」と表現したのは正しかった。優秀な大学院生が,いい成績を取って周りに褒められて出版に至るのなら,私は結末以外をすっ飛ばしている。でも,いい成績を取って褒められるだけよりは,出版できるだけの方を選ぶだろうな。

 

学術界で出版する機会は(修論の酷評に懲りて)これで最後になってしまいそうなので,ひとまずは。「人文科学と社会科学の中間(=どちらでもない)」とも言われたけど。

傷だらけの林檎でも,可食部分はある。

 

 

* 

口頭試問の直後,某フランス人と座禅をする約束をしていたのでお寺に向かった。彼が一週間ほどしか東京にいなかったために,そんなスケジュールになる。無心になどなれるはずもない頭の中は,指導教官の言葉で埋まっていた。座禅の時までガチャガチャしている。

あ,この「いびつさ」が私だ。

と気づいたのはそのときである。優等生みたいな道も,歩けるなら歩けばいいけれど。失敗を踏みならして歩いてきた自分の「いびつさ」を否定することは,ただ余計に人生を生きにくくするだけなのだ。

自分が「何」であるかを否定して,地獄を見ないように生きようとするのではなく,地獄の釜が再沸騰しようと,そのお湯でお茶を点て続けるような人間でいたい。そんなことを思う,修論の終わりだった。