それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

在り方:自分を表象するもの。


卒業以来会ってなかった高校の時の友達と会ったけど,全然お茶の話をしなかった。いつも口を開けばお茶の話をしてそうな私でも,そういうことができた。お茶の話を話してみれば,絶対「面白いね」って聴いてくれる子だったけど。これは相手の問題じゃない。

そして「お茶を点てるのが日課みたいになってて」って,すごくマトモな人みたいな受け答えをした。

お茶の話すると,全力がダダ漏れになるからだろうか。「あなたの血は抹茶色ですか?」って言われそうな狂い方もできるけど。いつも緑色の血液してるかっていうと,そうじゃない。

自分のしてることをうまく話せないとき(それでも話す必要があるとき),とりあえず毎日のお茶の写真を見せてみることもある。それでどうするのだろう。お茶点ててるとか,写真撮ってるとか言い換えたところで,ただ生きてるだけなんだよな。ここ3年くらいを振り返ったとき,そこにお茶があるっていうだけ。

こうして連日お茶写真を人に見える形で公開して,出逢ってきた人々の隣でお茶を点ててきたくせに。私がお茶まみれになってることを知る由もない昔の友達を前にして,今更何を言ってるんだろう。

 

と書いてみたけど,本当は喜ばしいことで。

お茶がなくても,私は私だったのだ。

 

 

6~7年ぶりに会って,その子の第一声が「声が変わってない!」だったし(もっと他にあるだろう),高校のときに「毎日ノート出してた(先生の添削指導受けてた)の今でも覚えてる」とか言われて,今も毎日お茶を提出(=投稿)してるからやってること一緒で。お茶を見せなくても,いや見せなかったからか,「何をするかより,どう在りたいかが大事なタイプ?」と言い当てられたりするのだ。

どんなにお茶に時間割いても,自分にもお茶じゃない要素がたくさんある。当然だけど。

緑の粉をお湯に溶かして飲んでるとか,茶碗の中で竹を動かしてるとか,そんな「何をやってるか」ばかりが,人間の中身でもないのだろう。どう在る人間なのかは,お茶をやってても辞めても変わらない。

 

 

茶碗一杯分,心が軽くなった。私はお茶と毎日付き合ってるだけじゃなくて,何よりも,何をしても,離れられない「自分」と一緒にいるのだと思った。

茶人でもなんでもないときの私は,お茶の話と同じぐらい生き方の話をしたり,インターンしたり普通に院生だったりして,そのどれもに,鬱陶しいほど「自分」が散らつくのだ。

自分を出す/出さない,自分のお茶を見せる/見せない,そんなことでもう,躊躇しない人で在りたい。