それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

人類学的書き物のすゝめ。

 

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

 

 

インターン先の社長が買った本を,社員さんの隣で,社長の目の前で読みふけってしまった(勤務中)。すみません。自分で選んだ本じゃないので「社会学」って書いてあるけど,いい表現があって,そこからバっと一冊読んでしまった(勤務後に)。*1

 

研究ってとにかく批判的でいればいいのかというとそうではなく,大別して3つのコアアプローチ(箕浦 2009: 2-8)がある。

論理実証主義的アプローチは誰の目にも同じように見える客観的世界(「真理」とか)が存在すると信じてる人が,知見を一般化しようとする立場。反対に,唯一無二の客観的世界なんかなく,どんな観点に立つかで社会的現実は変化すると考えるのが,解釈的アプローチ批判的アプローチ。行動や状況に着目して「分かろう」とするのが前者で,悪しきものを「変えていこう」とするのが後者である。ディスりをメインとしてるのは,これら3つのアプローチのうち1つであるということだ。

 

本書で扱われている内容の一つが「他者の合理性」である。(調査者にとっては)不可解なことをしているように見える人も,本人には理由があって,いたって合理的な判断のもとに生きているということ。

冒頭の本の中にあった丸山の事例を拝借すると,女性ホームレスがいたとして,その人がホームレスになった背景には隠された権力構造があることを主張して,それを変えようとする批判的意識を持つことを(読者や研究対象者自身に)促すのが批判的アプローチ。一方で,その人がホームレス生活の辛さを饒舌に語るにも関わらず,野宿者生活をやめないのには理由があるのでは,と考えるのが解釈的アプローチである。野宿者生活なんて早く脱却せな!っていうのは,正論だとか以前に,(当事者以外の)ある立場に立っている人間の意見であるということだ。

自分が合理的だと思ってる判断も,誰かにとっては不合理かもしれない。これが「自己の不合理性」であり,調査者自身が無意識に抱いていたバイアスに気づく過程もまた,質的調査では必要なのである。

では「他者の合理性」に寄りそうのでもなく,かつ「自己の不合理性」に無自覚な文章はどうなるのか。

調査者もまた人間である以上,ある局地性を生きており,局地的理解をしているにすぎません。(中略) 最も問題があるのは,「他者の合理性」でも「自己の不合理性」でもなく,「他者の不合理性」を記述する調査です。これに依拠した書き物からは,ほとんど学ぶものがありません。たとえば,若者の貧困を調査する研究者が,調査をした結果「若者が困難な生活を送るのは,かれらが仲間内だけの『狭い世間』を生きているからである」と結論づけるような例です。貧困を生きる若者という「他者」は,不合理なことをしているから貧困に陥っているのだと解釈しているのです,「他者の不合理性」が強調されて,その裏側には「自己(=書き手)の合理性」が前提にされています。

(中略)この手の調査には「調査をしたからわかったこと」が書かれていません。なぜなら,調査をせずともわかっていることを,自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞっているからです。その結果,問いが深められた形跡のない書き物ができあがるのです。(岸 2016: 147)(強調は引用者)

本書は質的調査の本だけど,ネット上のオピニオン記事でも充分に当てはまる。何かが間違っていると主張することは,自分の(元から思ってた)考えが正しいと主張すること。外の出来事や他人の意見やそれっぽい調査やらを引き合いに出し,持論の正当性を訴えたところで,実は元々の持論以上の何物も生まれていないのだ。

 

実は私は解釈的アプローチで論文を書いている。仮想敵は私が一年通っていた茶道教室で,まぁ批判材料はいくらでもある。でも批判というより,まず事実は事実として書く。ただ,インタビューさせてもらっている主要なインフォーマント(情報提供者)の皆さんは,私ほど気楽なお立場ではないので,ただ単に(悪い方向に)超伝統的な茶道教室が潰れることを望んでもいない。

つまり,あんな悪徳教室なくなった方がみんな幸せだ!と思うのは私にとっての合理性で,そんな昔ながらの茶道を知りつつもうまく折り合っているのが,インフォーマントの皆さん。そこには彼らの合理性がある。同時に,これも「茶道」の世界の一端だと思う。この状況を批判的アプローチで変えていこうとするのは,飛躍しすぎであり紙幅も足りず,完全に私の力量と持ち駒も足りていない。

 

紙面での順番は前後するけど,その「他者の合理性」を知るのに必要なのが,研究対象者そのものではなく,「人びとが対峙する世界」を知ることだと理解した。

「人びとの対峙する世界」を知ることは,当該状況に置かれた人々の視点に基づいて物事を考え直す契機となるものです。ですが「人びと」を知る場合には,人々の視点ではなく,それを解析する分析者の視点から考えることになってしまいます。「人びとの対峙する世界」を知ることは,対象者を受動的な容器としてではなく,能動的な働きかけを行う主体として捉えることを可能にするのです。(同上: 130)

インフォーマントは当然能動的な主体で,調査者の合理性に沿って動いてなどいない,ということ。各インフォーマントの合理性を知るために,少しでも彼らと同じ世界に浸るべく,フィールドワークや参与観察なんて手法があるのだ。

本書の主張を私の言葉で言い換えるなら,「あなたの叩き台になるために生きている人間など,誰一人としていない」だろうか。

「人間」を学問するのが人類学だと思ってたけど,「人びと」を仔細に観察しても,調査者としての関心事ばかりが浮かび上がってきて,それは相手を「分かる」ことに繋がってはいないのだなと思う。もちろん相手と同じ方向を向こうとはするけど,私はその本人じゃないので,解釈しかできない。

間違い(に見えること)を指摘することも,嫌うことも,文句を言うことも容易だけど。普段してる「批判」とは,なんて小手先の動作なのだろう。私が見たものを描写したときに,そこに否定的な含みなど込めたところで,不愉快な引っかき傷のようなものだなと思う。私が今立ち向かってるものは,私が目の当たりにした,そして彼らが私に見せてくれた,この世界のほんの一部で。山ほど思うところはあるのに,描写はできても,何を“きちんと”批判できようか。

 

それでも。修士で人類学に出逢ってからの方が,人と逢うことも,文章を書くことも楽しい。持論をただ補強するために書くのではなく,人の数だけ彼らが対峙する世界を見て,ひたすら聴き,読み,書く時期があること。こんな立脚の仕方,普通に生きてたら習得しようとも思わなかったな。

 

 

参考文献は,冒頭の一冊と,こちら。途中で引用した丸山さんの事例は,冒頭の本の中に記述があります。

フィールドワークの技法と実際〈2〉分析・解釈編

フィールドワークの技法と実際〈2〉分析・解釈編

 

 

*1:質的調査とは,インタビューやフィールドワーク,自分もその空間に参加する参与観察等々,調査者自身が収集した「会話記録や観察記録,写真,音声,動画などのデータや,さらには新聞記事や行政資料,歴史的資料,映画やポピュラー音楽,広告など」(岸 2016: 9)に基づく社会調査のことです。