それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

花は盛りに。


遠くから赤色が見えて,あれって椿だったかなと思い近寄ると,それはサンザシだった。

今日の茶菓子は椿の上生菓子にしようと思っていて,生の椿を探しに,私は大学へ芝刈りに。そうでなくてもいつも,スティックタイプのハサミを持ち歩いているのはそのためだ。しかしハサミは必要がなかった。木の根元には,枝ごと折れたサンザシが落ちていた。

 

サンザシを拾い,椿はまあいいかと来た道とは別の道を歩くと,目に入ったのは白い椿である。茶花として使うのは蕾の状態の椿だけで,こんなにも開ききった,むしろ朽ちかけている椿など誰も見向きはしない。茶室の中だけでなく大学内でも,白から黄土色へと変わりつつある椿は,見向きなどされていなかった。

 

頭の中の吉田兼好が「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と話しかけてくる。そうですよね。「茶花として使えるかどうか」なんて,人間の勝手だ。蕾を愛でるのも,枯れた花を愛でるのも,どっちが偉い正しいなんてないと思うのだ。

 

利休の教えを書き写したとされる南方録から,「花によりてはふわふわといけたるもよけれど,本意は景気をのみ好む心いやなり」との一文。花の美しさを見せるのではなく,花を活けるその人の心構えを見せろ,とのこと。

 

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枯れた花でも,どういう訳か,派手になる。

 

この茶はありや,なしや。

私は正解を示そうとしているのでもなく,ただ,問いを投げる。

 

遠州流が綺麗寂びなら,私は侘び派手の路線を開拓することにしましょうか。

 

 

 

 問いの話はこちらでもしてました。