それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

人の記憶に残ることを,恐れない。

 

「自称口下手な人」とは決して寡黙な人の事ではなく,考えていることが相手に伝わっている感覚を満足に得られていない人のことだ。本当に伝わってるかどうかなんて分からないという大前提の上で,話してる自分が不完全に感じるかどうかの問題。抱えているもどかしさは,単に英語が不自由なせいだけではない。日本語も十二分に不充分だ。

具体的には,友達の前でお茶を点てていて,あなたにとってお茶とは的な質問をされて,お茶はhow to join the worldとか答えたりしたとき。How to be committed to the worldって答えた方がまだ親切だったかなと思う。問題は英語の不自然さではなく,日本語でも同じだけ抽象的なことを言うだろうということ。

 

お茶は人となりを映しまくる。毎日のお茶写真に写っているのは茶碗ではなく自分で,自撮り棒など一生いらないほどだ。その写真を踏まえた上で「人に点てたらどうですか」と言われれば,虚を衝かれた気分で半笑いになる。いかにも「一人」なお茶ですか?本当はね,毎日誰かといるし話すし,最近は意識的に人に点てにいっている。そこで冒頭に話が戻る。物質的に一人でいる訳でなくて。

人にお茶を飲んでもらった後に「あぁ粗末な茶だった」と申し訳なさに駆られる性なので,人に振る舞うことは正直避けてきた。でも美味しくないお茶を点てながら茶人を名乗ってるのは愚の骨頂なので,人に点てるごとに美味しくなっていくはずと言い聞かせて重い腰を上げる。そもそも茶人を名乗らなきゃいいだろ,っていうのはここでは議論しない。

 

後悔することが嫌いなので,結果を引きずることはあっても,過去の判断を悔いることは私自身はない。ただし,例えば相手の中に残った「あの人のお茶まずかったな」という印象は,こっちの都合では消えてくれないだろう。一人で完結していることなら,自分が後悔しなければ後腐れがない。どんな苦くてまずいお茶も,私の中だけで消化したい。私は自分のペースで,飲み干してまた生きていけるようになるから。

お茶が苦ければ苦いほど,他人は一緒に飲んではくれない。それぞれが自分のお茶で精一杯だから。悲観的なことを言いたいのではなく,最終的に這い上がれるかは自分次第だっていう意味で。

 

なんでこんな考え方なのだろうかと考えたとき,自分がずっと恐れてものに気づいてしまった。私は人の記憶に残りたくないのだ。気づくと,私の点てるお茶がまずいかどうかも相手には分からない距離を保っている。だからなのか,成り行きとはいえ,結果として節目節目で住む場所を移っている。そりゃ人生のステージによって関わる人は変わるだろうけど。

今まで見ぬフリをしてきたことを,最近は急に受け止めてしまっている。日本語で会話できる相手が欲しかったのかもしれないけど,日本語でも話したいことは結局話してないなとか。考えてることが充分に伝わってる感覚の得られる人を求めてるんだなとか。温度の同じ人と一緒にいることを欲していても,近しい人が同じ温度であることは少なかったな,とか。

 

欲しているものが分かっていて,それを近づけない/近づかない生き方で幸せになろうとするのは,あまりに遠回りすぎる。同じ温度の人を欲している場合,それ以外の人にどれだけ囲まれようと,いつまでも幸せにならないのだ。

 

「単にここじゃない場所に行くこと」は,もはや正解ではない。

今立っている範囲で手に入れられないものは,場所を動いたぐらいでは手に入らない。

 

ここで突っ立ってもいられないし,「ここ」は必ずしも現在地とは限らないから,正確には多少動くと思うけれど。場所が変わってきたことに関して全く後悔はないものの,今後はもう場所を変えるだけでは意味がない。人との関わり方を少しずつでも変えて,考えを話すことにもっと慣れる。

いくら実際の私が「まずいお茶の人」だったとしても,だからこそなおさら,昔よりは美味しく点てられるようになったお茶を,誰かに飲んでもらうべく生きた方がいい。