それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

いつが最後でもいいように。

 

趣味を研究対象にすることについて話してたときに,自分の口からLove is different from interestと衝いて出てきた。じゃあloveかinterestどっちなのかと訊かれ,答えに窮することになる。後の会話でbecause you love teaと言われることへの違和感は残りつつ,否定もしなかったけど。

その夜に,そういえば研究対象の人達がする茶会の日程とか全然把握してないぞ,と調べてたら他にも色んな茶人が見つかって,すごいな〜だけど方向性が違う人の後追いをしても仕方ないな,とか研究に関係ないことを思いながら,日程を把握し切らないまま寝て起きたら,目覚めがいつもと違う。

あれ,お茶のこと,どうでもよくなってないか と。

 

 

私が毎日お茶を点てているのを見た人に「よっぽど好きじゃないとできないよ」と解釈されることが多いけれど,ただ好きなだけではここまで続けてこれなかった。何かを続けるということは,辞めどきの懸念が頭のどこかに常にあるということだ。たとえ死ぬまで続けると決めても,それは人間が必ず死ぬという事実が片隅にあるのと同じことというか,お茶の辞めどきについては考えなくても死ぬ時期については考える訳で。

今思ってるのは,もう今後一生お茶から離れてもいいわって思えるぐらい,今ここでお茶をやり切ろうとしてしまうこと。それくらいでないと,逆にそれ以降の人生に残るものがないと思う。その「残るもの」が,お茶に関係あってもなくてもいい。お茶は好きなんだけど…とかいう未練を残しつつ離れるぐらいなら,嫌いになるまでする。好きなら好きでいればいい。残りの期間が短いのなら,一杯一杯のお茶が惜しくも思えるし,「最後」まで走り切る気にもなる。と構えているけれど,その「最後」は意外と近いかもしれない。

そんなことを考えてたから,あんな気分で目が覚めるのだ。

 

loveとinterestが分かれてるように,感情と理性も(多分)分かれてるので,冷めようと気分が追いつかなかろうと,お茶のことを考える。お茶にも休肝日があっていいだろうに。

楽しいときだけお茶をしている訳でもなく,好きだからと単なる茶道賛美のための論文を書きはしないし,嫌いだからと批判しているだけの論文にするわけでもない。もう論文だけにしておけばいいのに,頼まれてもないのに毎日点てる。私は変な位置に立って,たまにこうして,立っているべき場所も分からなくなる。だからか(?),今日はゴロゴロと芝生でお茶をしていた。

冷めた気持ちの次に襲うのは,昨日まで好きだったものを大切にできなくなる恐怖である。大切にするってなんだろうか。そんなことを考えて芝生で茶を飲んで転がり,朝の冷めた気持ちはどこかへ行きつつある。本来なら,心の浮き沈みに合わせてお茶と付き合っていられたらそれでいい。

 

これから先,お茶がなくても今より楽しく生きていけるようになったとしたら,それはそれでお茶のおかげというか,お茶が「きっかけ」で「理由」なんだろう。そういう意味で,今後も私はお茶と生きることになると思う。

全然お茶じゃないことをしていても,どこにいても,誰といても,一人でいても。

 

 

例のごとくお茶の話ばっかりしたんですけど,比喩ですよね。

 

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