それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「好きなように生きる」ということ。

 

素敵記事の真ん中に突如自分が出てきて,読後感がすっかり変わってしまった。それでもいぬじん(id:inujin)さんの言葉の魅力は変わらない。

好きなように生きる、というのは、自分だけの特別なレンズをとおして世界を見つめる、ということだ。 他人にとってはつまらない光景やどうでもいい場面であっても、その人が大切にしているものを通してのぞけば、まったく違う世界が見えてくる。 それが甘んじるなさんにとっては「お茶」である。 彼女はこの世界を「お茶を入れるのにふさわしい場所」としてとらえなおすことができるのだ。 そうすることで、平凡な河原も、退屈な路地も、そして自身の生活も、すべてが彼女の好きな「お茶」を成立させるためのフィールドとなるのである。

出世に、失敗しました。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

名実ともに出世に縁のない私だけど,「好きなように生きる」ことに関して,この文脈で私が登場したこと自体には合点がいく。大学院(本業)でもお茶を研究対象にして,休日にはお茶に関係のありそうなところへ南北どこでも赴き,そうでなくても毎日お茶を点てて,どう考えても有閑学生(同意語を2つ並べただけ)である。字義通り,好きなことしかしていないのだ。この今に至るまで,自ら目指したものは全て叶わなかったにもかかわらず。

 

日常のすべての体験が、新しい発想の引き出しを作ってくれる、滋味深い食べ物になるからだ。 ボロボロになるまで働くことも、子育てと仕事の合間でヒーヒー言うことも、そして出世に失敗することも、すべてがアイデアの栄養となり、豊かな土壌を育んでくれる。 無駄な時間なんて、ひとつもない。 そこには出世がどうとか、他人の顔色がどうとか、そういうつまらない景色じゃなく、未知の体験にあふれたワクワクした光景が広がっているのに、それを見るレンズをすっかり忘れてしまっていた。

出世に、失敗しました。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

いぬじんさんと私では背負っているものの総量が全く比べ物にならないので,同じ文脈で何か述べることはできない。けれど欲したものが欲しい形で手に入らない,もしくは何かを失う,という意味では私はいくらでも失敗している。受験みたいな白か黒かと二色しかないものから,どうでもいい人に費やし消化されてしまった時間といった漫然としたものまで。

 

しかし「失敗」に関してはもうこの記事で結論が出ている。あらゆるやるせなさを踏み均した先に今の生活があるのだ。忌々しい「失敗」なんて無いにこしたことはなく,現在は1年前2年前より確実に楽しいのに,過去の忌々しさを全否定しながら今を肯定することはできなくなりつつある。この「失敗」に関する上の記事は,海外大学院の結果が出る数ヶ月前に書いたものだった。そして今確実なのは,私は日本にいるということ。お茶を点てているということ。冒頭で述べた通りの「好きなことしかしていない生き方をしている」ということ。

何かが駄目でも,好きなように生きることは諦めなくていい,ということ。

 

誰かにつっこまれずとも,これから先社会人として「まとも」に生きるのならば、こんな風に生きていられるのは今だけだ,とも思う。けれど,今この瞬間から「まとも」に生きようとするよりは,今みたいな「好きなように生きていられる」期間が延びるよう今ここで尽力しようとするんじゃないのかな。無駄に余るエネルギーは,自分の生きたいように生きるために費やしてこそなのだろう。

いぬじんさんのような頑張り過ぎてしまう人が,「好きなように生きる」ためにご自身の持てる力を発揮されたのなら,好きなように生きられないことなんてない,と希望と実感を込めて思うのである。