それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

理想と現実の,隙間。

さかなクンに劣等感抱いたりしても仕方ない,っていう話を前もしたけれど,「違う世界の人だから」っていう理由は多少の悲愴を伴う。今起こっていることは全て自分のレベルに合ったもので,起こっていないことは相応しくないこと,と突きつけられている気がするのだ。

例えば私がまだ大学生になったばかりの頃,「何者にもならんでいいんやない?」と言われて,「お前は何者にもなれない」と脳内変換された。つい先月,日本の大学院に入学する前にMarkに言われたのも「自分のただの予想だけど,君はずっと日本にいそうだね」だった。これも「海外に行く能力がない」と脳内変換されそうになったところ,彼は「(その大学院なら)君は英語も上達するし外国人の友達も作れるし,英語で本を書くこともできると思うよ」と付け足した。彼は私の思考を分かっているのである。日本に留まることと能力がないことは,ひとまず別物として考えるべきだった。

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じゃあ自分と違うクラスタの人ではなく,自分のしたかったことを既に叶えている人に対してならどうだろうか?アメリカの大学院に留学した2歳年上の人を例に挙げると,能力も知名度も遥か先を行っている。って追いつけることを前提で話したら失礼かもしれない。ただ,実際に会ってお話したときの感触だったり,Facebookでたまに見かけたりする限りでは,劣等感なんていらないな,と思ったのだ。

何者かになったらそのレベル相応の悦びが待っていると考えがちだ。よりレベルの高い人と,仕事でもプライベートでも付き合えるようになる,今出逢っていないような人と今できていないことができるようになる,そうやって今目の前に無いものを見ようとしてきた。

先の例で言えば,海外の大学院に行ってる彼は,そりゃアメリカでは日本と全然違う層の人達と付き合ってると思うんだけど,プライベートの彼女は学部時代に知り合ったらしい日本人の方だった。彼女がアメリカに来た時の写真なんかを載せていて,ディズニーでデートしてるっぽかったのだけど。

 

彼とは年齢差がそこまでないこととかも関係あると思うけど,そこに自分との違いをあまり感じなくて,その人には大変失礼な話,少しほっとした気がした。

私が感じている相手との差っていうのは,カルフォルニアか千葉かっていう違いぐらいのものなんじゃないだろうか。

 

本場だよ,カルフォルニアだよってところにこだわるならアメリカに行けばいいし,どっちもディズニーじゃんって思うなら千葉でも充分楽しい。さらに,デート先は付き合いのほんの一要素でしかないと考えるなら,ディズニーでなくてもいいのかもしれなかった。

夢を叶えれば今と違う自分にはなる。その今と違う自分っていうのが今の自分より遥かに優れているなんてことは多分なくて,今ある駄目な部分も多分に引きずっているんだと思う。夢を叶えた先と今ってそんな離れていないかもしれない。

日本にいるからって日本人といる必要も,海外行ったからって外国人と付き合わなきゃいけないこともない。きっとどこにいて誰と付き合ってもディズニーとかでデートしてるだろうなんて思えたとき,きっとこれでいいのだとスッと腑に落ちた気がした。カルフォルニアか千葉かって言われたならば,私はここで頑張ることを選ぶだろう。

 

理想が叶っていなさそうに見えるこの現実も楽しい,と思うことに悲観的な含みなんていらない。理想と現実の間にあるものって,どちらかというと現実なんだと思う。何者でもなくても今の自分の方が楽しいと,なんの悲嘆も漂わせず言えると,少し大人になった感じがするだろう。

もちろん,今ある駄目な部分を引きずりつつも歩き続けることを,やめはしないけど。

 

 

*1:写真は全然アメリカ関係なくて,アムステルダムにあるI amsterdamのモニュメントの前。笑

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