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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

嫌な日とは,感情に振り回されたままの日のこと。

 

お茶を毎日点て始めて,その写真をTwitterに載せ続けて一年半以上経った。そのうち,とてもじゃないけどお茶を点てる気分じゃない日が何日あって,なんとかサササッと点てて写真を撮ったはいいけど加工する気力のない日が何日あって,Twitterでアップするときに「今日は何も言葉書かずに更新してやろうか」と思う日が何日あって,文章もただ暗いだけの後ろ向きなことしか浮かばない日が何日あるだろうか。本当にお茶が点てたくて点ててる日は,何日あっただろうか。

起床リズムみたいに体得できるものでもなく,抹茶中毒とかいう訳でも全然なく,本当に意志力を必要とするものを日課にしてしまった。誰に毎日点てろ毎日何か言葉をつけろと言われてる訳でもないのに,一種の人体実験みたいなものである。

 

 

人に見えている状況だけで言えば,去年の方が散々だったはずだ。夕飯の後とか寝る前とかにTwitterでお茶に添える文を考えて,やめたい無理つらいとか以外の言葉を生成するのに苦労していた。何も進展のなかった日,嫌なことがあった日,それでも出来事から何か抽出する,それ自体結構前向きな作業だったと思うし,抽出されたものが教訓めいた(別の日に読み返しても意味ありそうな)ものだと,その日が散々な日でもまぁいいかと思えて寝られる。

人の気持ちは放っておけば不安や不機嫌に駆られて傾いていく。お茶なんて点てなくても毎日は過ぎ去る。どちらも一過性のもの,負の感情や日々に流されたくなければ,一日一日に引っ搔き傷を残す必要があった。

 

過去の引っ搔き傷を見ると思い出すことがあるというよりは,むしろ今となっては断片を書き残したことしか思い出せないのだ。本当はいいことも嫌なことも頭のどっかにしまってあるんだろうけど,その日に何が起こったかを思い出せるのは,お茶に添えられた言葉とお茶の写真そのものを見たから。

さっさと更新済ましたいけど,なんでもいいからと適当な言葉を書き添えていたら,その言葉を見ても起こったことなんて後から思い出せないし,だいたい適当なことを書こうとするとスッと出てくるのはネガティブな言葉ぐらいだ。ネガティブな記憶を保存しておくためにお茶に時間を割いてる訳じゃない。

その日を機嫌良く過ごしたことが後で分かるように,嫌な気分の日も不機嫌に駆られたままで一日を終えないために,必要な作業なのだ。

 

 

目標が叶おうと叶わなかろうと,悩みがあろうとなかろうと,怒ってみたり泣いてみたり不安に駆られてみたり,人は機嫌が悪くなれば一瞬で不幸になれる。

幸せなことと不快なことが散々起こったこの一年半の実験で分かったのは,嫌な日っていうのは嫌なことが起こった日ではなく,嫌な気分になってる日のことだということ。

 

今も不満に思っていることは,幸せを感じている瞬間も解決されてなかったはずなのに,その瞬間はとりあえず幸せを感じることができる。逆も然りで,過去に感じた幸せは今も消えていないのに,もう生きていたくなくなったりする。それは起こった出来事の善し悪しの違いじゃなくて,その瞬間の感情の違いなんじゃないのかな。

 

 

出来事は人生がどっかに転がっていくきっかけでしかないのかなとも思う。私も出来事の起こった瞬間はこれでもかと感情に振り回されるんだけど,お茶写真として一日を記録するときの一日一回だけは立ち止まるようにしている。

もはやお茶そのものは関係ないんだけど,味が好きな訳ではない飲み物を毎日飲み続けるぐらいの労力をかければ,不機嫌を不機嫌以外の何かに変えることはできる。後でお茶を見返して,過去に抽出した幸せな部分がチラチラと見えれば,今の気分にも影響を与えられる。意志力は要るけど,機嫌を操ることが,幸せを思うように扱うことそのもののように感じている。