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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

モグラになりたい蝶も,その逆もいない。

 

自分に自信のある人が得意ではなく,「この人こういう欠点がいくつかあるのに*1,いい部分や成功談しか話さないな」って思うことがしばしばあるけど,翻って,私の話をうんうんと聞く人って,ある程度自信がある「自分は自分でうまくいってる人」なんじゃないかな。私みたいに自信のない人が他の人(この場合は私)の話を聞いても,「この人いい部分しか話さないな」と思うのかもしれないから。

 

幸か不幸か私は普通に思い通りにいかないことの方が割合多くて,起こった出来事自体は望んでいたものばかりではない。いい部分を話してるとしたら,嫌なことを散々悩んで愚痴った後にポジティブに捉えられるようになっただけなんだと思う。悩みや愚痴の部分だけを聞いて相手を不幸だと判断する人もいるかもしれないけれど,相手に対してこの人は愚痴(あるいは成功談)しか話さないなと思う場合は,おそらく単純に会話の量(中身)が足りていない。

どんなに成功談しか話さない人も,自分は幸せだと思うことに必死なのかもしれないし,「我々は自分で考えているほど幸福ではない」という言葉はとてもしっくりくる。どれだけ幸せに見える人も不幸せに見える人も,それは相手の一部分である。

 

 

その結果,私がよく話す相手は,成功談も失敗談も両方話すだけの会話の長さと内容がある人で,「あなたみたいな生き方しようとは思わないけど聞く分には面白いな」程度に,好意的に考える人でないといけないことになる。相手を羨ましく思うときはもちろん,思えないときこそ,「あなたと私は違う人生」で,あなたの人生を私が生きたら幸せじゃないだろうけど「あっちもこっちもそれはそれで幸せ」だと思えることが必要だ。相手側だけでなく,私が人の話を聞くときももちろんのこと。

 

自分と似てるなと思う人に出逢えたことがまだなく,同族同士で比べることはなかったけれど,自分より幸福な人がいれば相対的に自分が不幸になるなんてことも,本当は無いのだ。そして違う生き方をしている人と自分は,尺度を共有していないために比べようがないのだとも思った。

アインシュタインの言葉で言えば「蝶はモグラではない。でも,そのことを残念がる蝶もいないだろう」。

 

この蝶とモグラの話,私の言葉で書くと松岡修造とさかなクンの話になっている。

 

 

*1:深刻な欠点こそ本人は深刻に扱っていない

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