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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

「人間なのに,○○でない。」

 

例えば抹茶は分かりやすくおいしいものではない(と思っている)が,「飲み物なのにおいしくないってどうなんだろう」とふと思った。抹茶を飲む時は,飲み物としての価値ではなく,何か別のものとしての価値を見つけなくてはならなくなる。茶道を語る人間が味の話をあまりしないことは多分わざとではなく,茶道自体に味以外の構成要素が多すぎて,本来主役であるはずのお茶の味の話の比重が低いのである。その構成要素の多さが茶道の仰々しさそのものだったりするのだが,もはやお茶の味そのものの美点の話ではなくなっている。*1

飲み物食べ物にとって味が価値基準なのはよく分かる。「みんなとご飯を食べると楽しい」というよりは「みんなと一緒に食べるとおいしい」みたいな表現をするのも一つの例だ。食べることと直接に結びついているのは味で,「おいしい」は明らかに是だ。「食べ物なのにおいしくない」ものはネタと化していたりして,(あるとすれば)味以外のところに存在価値がある。

 

じゃあ主語を変えて「人間なのに,○○でない」とは言えるだろうか。

「人間なのに文化的でない」とか「働いていない」「結婚していない」なんて言った場合,その○○に入ったものがその人にとっての価値基準,しかもたいていは最低基準だ。主語が人間だと大きいので,「いい歳して」とか範囲を狭めても話は同じである。*2

しかし,労働やら結婚やらに対して「人間だったら○○であるはずだ」と必ずしも言い切れるだろうか。本来なら,それらが欠けていると生きられないような仕組みの下にあるときにのみ,その人間は困るのである。上に挙げた例*3に共通しているのは,ことごとく社会での在り方の話をしているというところだ。

「人間なのに」と言えるのは,本人以外の構成要素の方に目が向いているときで,本当の意味で個人だけを見たとき,つまりある人を社会の中の一人として見なかった場合に,「人間なのに」と主語を大きくしてもいいことはない。さらに言えば,その人間の在り方が社会的でないときにそう言われるのでは。多くの「人間なのに」を一言でまとめてしまえば,「人間なのに社会的でない」だろう。

 

人間の価値は飲み物ほど分かりやすく判断できない。いいと言われるときも悪いと言われるときも,何かその本人周辺の構成要素の話をされているように感じる。人間そのものは,良くも悪くもないのだ。そこに仕事なり近しい他人なり,軸を一本設けると良いものと悪いものに分けられる。

飲み物なのにおいしくない抹茶,のように,「人間なのにこんな感じで生きている自分」は,他の構成要素で武装するしかないだろうか?こんなときは,社会的な,つまり周囲にできるだけ好ましい影響を与えられるであろう要素で武装することばかり考える。そうやって,どうやって社会的になるか,社会に対して何を為すかにばかり捕らわれたりするのだ。より良く武装しようとするときに,逆にその本人の美点からどんどん遠ざかっていく。

 

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主語を小さくしたら価値基準はどう変わるだろうか。

「いい歳して」のように範囲を狭めるに留まらず,唯一のものに固定する。

 

「私なのに,○○でない。」

 

 

社会の中での在り方以前に,自分は単体でどう在るのか考える。

とても生きやすくなるのだ。

 

 

*1:そうやって好物というほどではないものを毎日飲み続けることは,味以外の価値を創り出そうとする繰り返しでもある。結局私は本体でない要素ばかりを見ているのかもしれない。

*2:人間なのに口が一つではない,とか言った場合,口が一つだけあることがその人の最低基準なんだろう。

*3:口の例以外

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