それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

「運命の相手」について,自分が書くとこうなる。

zuisho.hatenadiary.jp

読みました!あたしも「10人中9人とは生涯を共にしようとしてできないこともないだろう」と思っている一人です。

なぜなら自分にとっての人間関係とは,相手の生き方が自分と極端に違い過ぎず,あたしが相手にキツい罵声を浴びせない限り続くものだから。平たく言えば,あたしが相手の話を「うんうん^^」と聞けているうちは関係も続く。相手が同性でも異性でも,あたしが話を聞いているモードの時は,相手がどのように振る舞っていてもたいていのことには寛大なのである。そんな極端な話じゃなくとも,相手に耐えさせることが多いので,自分が我慢することを覚えるとだいたいの人とは長続きするんだろうな,と思ったりする。

 

10分の9人に絞った中からさらに1人を決めるようなとき問題になるのは,誰に「運命の相手」だと意味づけたいかの程度の差なんじゃないか。ただ誰かとうまくやっていくだけなら,相手にキレなければ(自分の場合)大丈夫なんだけど,うまくやっていけること”以上”の意味合いがほしいんだろうな。でも,ある人に対して「ただうまくやっていくだけなら他の人でもいいけど,この人はそれ以上であってほしい」って思えるなら,明らかに他の人と違う。例えば占いとかで相性悪くても別にそんなの信じずに付き合っていられるけど,相性が良ければ良かったで嬉しいような感覚というか,この人運命であってほしいなと思えること自体が恋でしょ。

 

奇跡も自分で起こすものだと思うし,運命も,自分でこれ運命だわって思うもののことなんだと思う。運命を信じるも何も,自分が生きてたら生起してしまったことに対して,どれも予め決まっていたことと思うのも自由だし,ある事柄だけ取り上げて運命だと思うこともできる。例えるなら生理的に全く受け付けない容姿の人に対して,その人が最高に自分好みの性格をしてるかもなんて予想もしないと思うけど,それって目の前の事象に対して「運命」だと思える範囲を自分で変化させて狭めてるからだよね。そういう可変的なものは,こういう文脈で言われる「運命の相手」から遠いところにあると思う。

 

出逢う人の中で1人だけ運命の人がいると期待することは,それこそ入り口の段階で可能性を狭めているのであって,最初から自分向けに誂えられてる人を待つようなものかもしれない。そんな人いたら確かに運命だわ。

あたしナイズされた人間なんていないけど,現状よりも自分好みに近づいてくれるというか,自分の好みに近いところを発見できたら嬉しい人っていうのはいるよな,と今は思う。それは,それまでの時点で既に,あたし向けに誂えられてなんていないその人の中に,好ましい要素が見えてるってことでもある。どんな人も長所と短所を持ってる中で,誰の中に良さを見つけていたいのか,そんな風に考えるようになってきた。

運命とはあまり関係のないところで,今日も誰かに対する意味づけ作業は続けられている。

 

 

意味づけなんて言葉を遣うと色気もムードも無いのだけど,そんな言葉は遣わずロマンチックに語ってくれたズイショさんに対して,短く書こうとすればあんなにスッキリ収まるものなんだなぁ,長いのも短いのも書けるんだなぁと,誰目線だよと言われそうな立場ながら思いました。以上です。