それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「幸せだ」と認定してあげること。

 

世の中のあらゆるものに意味を持たせては,意味づけをしないことには物事や人は価値を帯びないという主張をしてきた。この理論を当てはめれば,最も幸せな人間とは「自分は幸せだと意味づけられる人間」のことだ。

その逆を考えれば分かる。幸せの条件をいくらクリアしていても満たされないと感じている人は,あらゆるものが不足していても自分は幸せだと思っている人より幸せではないことになる。

例えば頭が良くなかったり誰にも好かれなかったりする人がいたとして,その人が自分は幸せだと思っているとすれば,頭がいいことや誰かに好かれることに意味を感じていないんだろう。もしくは,それよりも価値を感じられるものが他にあってそれを持っているとか。

違う視点の話をすれば,ある人がどんなに自信に溢れていても「あの人みたいな人生は送りたくないな…」って思ってしまうこともある。自信のある分野ではその人は幸せだけど,どんな人間だってどこか足りないのだ。他人にその不足が見えているとき「いや,あなたのこんなとこが駄目だけどね」って思えてしまうんだろう。足りないものの大きさはバラバラだけど,どんな人も自分を幸せにしてくれる箇所を見て自信を持つことは可能。

 

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冒頭の話で言えば,「自分は幸せだ」ということにしてあげるのは自分の仕事。

もちろん,自分は不幸だと断定してあげることもできる。ただ,それは他人の仕事なんだろう。

 

 

恥ずかしい思いもたくさんしたし,悔しい経験も多々あるけど,それは他人がいなければ,恥の概念も,劣等感も,怒る対象すらなかった。一切の関わりの無い人々の中で生きていたら,「失敗」なんてものは無い。比べる必要も無いから「苦労」する必要もない。

 

それなのに,自分がどれだけ今の生活が楽しいかは伝わらないのに(伝わらないから?),他人に不幸だと見られることは簡単だ。

成功することでしか,どれだけ幸せかは示せないだろうか?

 

 

そこで冒頭の話に戻るのだ。

 

どんな成功してる人も足りないものはあって,不足部分を見ている他人には不幸に思われて,それはただの堂々巡りでしかない。

どちらにしろ他人には不幸に見えているなら,自分で幸せだと意味づけられる人間のみが本人にとって幸せで。他人に見えてる不幸せ像を自分そのもののように受け取らないことだ。

逆に言えば,誰かがあたしを不幸だと認定したとしても,あたしから見ればその人は可哀想な人だ。お互い様だろう。

 

幸せでない人はみな不幸だなんて,世の中はそんなに二元的じゃない。

 

 

どんなに満足してる人間でも,足りないものは絶対ある。その中で,自分が今持っているものに全力で意味づけをすること(誰々がいれば他はいらない!みたいなやつ)も可能だし,幸せだと思い込むにもある程度の根拠が欲しい人だっている。

誰に何を直接言われた訳でもないのにこんな文章を書く。不足を自覚してるから気にしているのだ。でもそれは単に,自分で自分は不幸であると意味づけているだけ。