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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

どうして茶道をしているの。

 

先日お茶を点ててたとき「前はお点前がチャカチャカしてたのにね」って言われて,なぜか「あたしはこの茶道部が好きじゃないかもしれない」と感じた。内輪のサークルなのでお茶室の中でもみんな普通に喋ってるわけだけど,そのときは「お点前してるときに,誰も私に話しかけるな」みたいな感覚になってしまった。茶道部が終わると,なんだかひどく疲れた気持ちになり,それでも今日一日を終えたくないような欠乏感がある。

 

なんで茶道をしているのだろう。

 

不思議なもので,毎日お茶は家で点て続けてるし,お茶会があれば出向く。英語版のアカウントで自分のお茶や茶碗に対して海外から反応をもらったり,お茶会で思いがけない体験をしたり,「茶人」である楽しさは,独りであっても,その茶道部にいなくても味わえるのだ。問題は「茶道」をする煩わしさのようなものを「茶道部」の中で感じてしまうこと。

 

* 

 

自分が「茶道」をしている理由も失ったまま,足はお茶会へと向く。会場が少し遠いこともあって,誰も誘わなかった。野点席だと若い女性グループがよく写メを撮ってたりするけど,そういう席でもないので複数人で行くこともないかな,と。大学生らしい人も見受けられたけど,やはりみんな一人で来ていた。

 

残念なことに,茶道をしている人の中でも,茶道に対する温度差があるのだ。毎日お茶なんか点てず,卒論でお茶の研究などせず,週に一度だけ茶道をしていた頃の方が「茶道部」にいることは楽しかったかもしれない。

茶道部に顔を出さずとも生活にお茶が取り込まれた今,昔感じていたような単純な楽しさは無いのだ。非日常が日常になるって,何かと引き換えにそれまでの楽しさが失われることかもしれない。日常の中で新鮮さを創出する連続はまた楽しいけど,その次元だともはや茶道部とかはあまり関係ない。

 

もう,なんで茶道をしているのだろう。

 

 

結論から言えば,茶道の楽しさは茶道部の中ではなくお茶会の中にあった。

 

待合で隣同士になった気のいいおばあさんが「バスが一緒でしたよね」と話しかけてくださった。ちゃんとしたお茶会だと点心席とかいってお茶だけじゃなくご飯がついてる席もあるのだけど,おばあさんから点心席の券をいただき,お茶席よりも遥かに眺めのいい点心席に上がることができた。偶然仲良くなった人が正客という会はなかなか巡り会うことがなく,いい一席だったなと思えるお茶会もまた少ない。

また,別のおばあさんには庭園まで案内してもらって見学していた。「何かの縁だから」という定型文を違和感なく受け取ることができたのも,彼女らが年月に裏付けされた茶道の実践者であるから,かも。

 

「またどこかで」とさらっと帰っていくのも,お名前を交換するのも,各々のスタイルであって。近いうちにまたサークルで会える,来週という未来が確実に存在する茶道部の中では「一期一会」の精神は薄らぐのかもしれない。お茶室の外は,もう会わないであろう人で溢れかえってるのに。

 

一人でお茶会に行かない人は馴染みの「茶道部」のメンバーとお茶を楽しみ続けるのだろう。それもまた,彼女らにとって紛うことなき「茶道」だ。それが楽しいのであれば越したことはない。あたしはそう感じない時があるだけのこと。

 

頭ではまだ何もハッキリしてないけど,そのおばあさんが教えてくださったまた別のお茶会へ,近いうちに出向こうと思う。

 

 

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