それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

買いたい苦労だけ,買ってでもせよ。


人は「私はこれをしたんです」と言いたい努力をしているのではないか。

 

具体例でいえば             

英語の学習は,授業の課題に取り組まなきゃいけない時に最もつまらない。その授業中も然り。
英語での講義を聞いてノートテイキングしたあと問題を解く授業で,講義のメモを取るよりも話を聞きながら問題を解いていた。メモ用の紙は白いまま。先生が来て用紙を指して,「お手上げ?」って言った時なんかは最悪だ。申し訳ないけど今の自分ならできるレベルだった。「先に問題解いてました」と事実だけ伝えるとまた文句を言われたので,それ以上に言い返すべきだっただろうか?

言われた当時は今以上に自分の持ってるスコアも悪く,とてもじゃないけど「これだけ努力してるのでできますけど」なんて言えなかった。

 

ここでふと気付いたのは,最近の自分が「これだけ努力をしてるので」なんて言葉が出てくるような努力をしていないということだ。できない人間だと思われることよりも,”こんなに頑張ってる”なんて言えない自分が悔しかった。でも確実に,去年1年間よりできるようになってる。

生きてたくない気持ちいっぱいで受験勉強をしていた高校の頃は,目に見えて「これだけ努力」をしていたし,(結果が出ない分)過程を評価されてたけど,今よりよっぽど英語ができなかった。
人から見て分かるような,人に言えるような「これだけの努力」に,どれだけの信憑性があるだろうか。


 

ストレスフリーの努力          

「これだけ」とも「努力」とも言えない中,今してることと言えば,一日も英語を途切らせないことだ。英語の問題を解きたくない日でも,何か聞いてるか読んでるか話してる。やりたいことだけをするのは難しくても,「その日したくないことをしない」というルールを忠実に守ってるだけ。

今日したくないことをすれば,別の日にまとめてやる気が失せる。人生全体で見た時に自分が稼働していない時間とその不利益を考慮すれば,今日一日を気持ちよく稼働させて明日も稼働してもらうことが一番なのである。これは,毎日同じことを繰り返すという意味ではない。毎日を変化させてるからこそ,全体で見れば断続的に稼働しているように見える。

そして英語の課題みたいな「やりたい」という気持ちが今後も絶対に湧かないことは,締め切りだけ意識しておいて,「やりたくない」という負の感情が浮かんでいない時にしている。機嫌の良さが続かないように,機嫌の悪いときばかりでもないのだ。その瞬間を狙うと意外にもストレスを最小限にして生きることができる。

そして,ストレスが最小限の状態というのは換言すると,「これだけ努力してる」「こんなに頑張ってる」と思いにくい状態のことである。辛くてしんどいストレスを溜め込んでいる状況ほど,人から見ても自分から見ても分かりやすく「何か頑張ってる」ように感じる。だけど他人はもちろん,自分でも「努力」してるなんて思えない状態になったここ数ヶ月が,実は一番伸びた。 

腹が立った時でも「こんなに努力してるので」なんて言葉が浮かばなくなったことこそが,最小限のストレスで毎日稼働し続けていたことの証明だ。

  

悪循環でしかない「努力」もある     

ストレスが頑張りの証であるかのような社会で,何か苦しい選択をすれば自分のためになるように思える。自分がどれだけ「努力」したかを誰かに伝えたければ,どれだけ辛かったかを話せばいいのだろう。

じゃあなぜその「努力」は辛いのだろうか。

それは誰かに伝えるための「努力」だからだ。

 

そうして人に伝わる自分の「努力」は,おそらく能力の証明ではない。何かにかけた時間を代弁してくれてるだけだ。
加えて厄介なことに,苦しんだと誰かに伝えた分だけ何か成果を出さなければいけないと感じてしまう。それでも自分の辛さを話すことでしか,成果の出ていない今の状況を肯定することができない。
成果も無く肯定もできない場合,自信はどこから持ってくるかといえば,過去にしてきた「努力」すなわち何かしんどい経験からだ。

 

物事を苦しくしているのは自分      

この悪循環を抱えていた3月末ごろまでとそれ以降の経験からいくつか解決策が浮かぶ。悪循環を反対から捉えてみることだ。

根拠の無い自信とよく言われるが,それは成果や人からの評価がなくとも自信を持てという意味だろう。自信の根拠が得られるまで何も喋りたくなかったので,英語のスコアが出るまでは,これまで周囲に何を「努力」してるかという話をしなかった。

人に「無理・無駄」と言われないために,自分のしんどさを伝えて予防線を張ることももう必要ない。しんどいと誰かに伝える代わりに,「無理・無駄」と思わないような人や,もし失敗してもそれを報告できるぐらい信用してる人にだけ,何を何のために取り組んでるか事実だけ伝えておけばいい。

 

他人に示すための努力をやめると,ただ辛いだけの努力をしなくなる。今苦しんでおけば将来どこかで役に立つかも,と思ってする苦労ならしないほうがいい。どんなにストレスを最低限に押さえようとしても人間どこかで苦労するので,とりあえずしてる苦労よりも買ってでもしたい苦労からすればいい。そしてそれは自ら望んだことなので”苦労”なんかではないのだと意識すること。

 

「努力」とも呼べない生活を送った場合   

もう人に言い返すことも,逆に周囲の共感を得ることもできないだろう。でも苦しい努力をしなくてよくなった時には,言い返すことも周りの共感も必要なくなってる。

冒頭の先生は,後期もさらにキツいその先生の授業を取るように言ったけど,今のあたしは「したくないことをしない」ので,その授業は受けない。買ってでも味わいたいようなキツさじゃない。その大変さは望んでないのだ。その授業を受けるより海外の大学院の出願準備をしたいし,仲のいい人たちと英語か日本語で話していたい。

こんな生活を「努力」と呼ぶのなら,その「努力」は楽しい。*1

 

 

*1:英語上級者になるといかに自分に「負荷」をかけていくかが上達のカギになるようですが,私はまだ良くても中級なので”楽しく・途切らせない”ことが大事な段階だと思っています。ただ,ここでいう「負荷」も単なる苦労のことではないと感じています。