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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

過去の出来事や現状とうまく付き合っていくこと。

ある友達と話してたときにあたしがつい「過去の人にどう思われててもどうでもいいよ」と言ってしまった。「ドライなんだね…」って言われて多分引かれた。確かに過去の人にまだ好かれてたいなんて思わないからこそ最悪な最後だったのであって。そしたらその過去の人の”友達”の態度が急に変わったりして,お前関係ないやろ!とかそういうことは気にしてるけど気にしてたらキリがないっていう意味で。

そんな話を別の友達にしたら。

「いや,(あたしは)そのくらいじゃないと!!!」って言われた。

あたしがそう思うのは,変わったから,うまくいってるからなんだよ,って。人にどう思われても進むぐらいが自分にはちょうどいいらしい。

 

もしあたしが「誰にどう思われてもどうでもいい!」って言い切れるとしたら,そうやって肯定してくれる人たちが周りにいてくれるからだけど。

 

つい最近だって,今の指導教官の反応だけを見れば,今の研究室を離れるのが正しい判断なのか分からなくなった。不快な人を過去に置いていくのはともかく,むしろ感謝してる人に後ろ足で砂をかけることはさすがに躊躇う。捨ててきたものの重さにずっと後になって気付いたり,この選択によって何を手放すことになるのか決断直後に気付いたり。そしてどのタイミングで国内の大学院に決めるかとか,いつ自分のスコアに見切りをつけるかとか,これからも決断の連続らしい。

 

 

自分は今の環境に満足してそこから出てこない人が好きではない。究極的には足るを知ることでしか幸せになれないことも分かってるけど,その究極までは満足しきりたくないのである。それこそあたしと考え方の違う人は現状に満足してたり自分に自信がありすぎる人だったりして,未だにその人たちの生き方を好きになれない。

でも,そういう幸せのなり方もあるんだなとは最近思える。いつか幸せになるのを待つよりも,今ここで幸せだと思うことに早すぎることはないのかもしれない。学生時代や20代前半をどう捉えるかの問題だ。

変な話,今ある安定や満足が一生続くのは不幸なことだろうか?一つの幸せやぬくぬくした環境が延々と続いてありがたみがなくなっても,その途中で違う幸せが全く無いわけでもないだろうし,それに越したことは無いのかもしれない。とか,そろそろ落ち着きたくなってる人みたいなことを言うけれど。

 

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調子に乗りすぎないように今の自分や人生に足りないものを把握しつつ,いいことがあれば喜んで,いいことがなくても全く退屈しないような人生の中で,自分の希望を叶えてあげながら生きていけたらそれが幸せ。

そうやって生きていたらなぜか現状維持なんてありえない。その途中にたくさんの選択といくつかの決断があって,気付いたら違う景色が見えていて,昔の自分には考えられなかったようなことを考えられるようになってる。前から考えていたことは厚みを増す。それで幸せだ。

 

捨ててきた過去は,選択の証でしかない。それでも,ここに留まろうとしてる人より,捨ててきたものの重さも,見えたものもこれから見るものも違う。愛は共に同じ方向を向くことだとサン=テグジュペリが言ったけど,あたしは相手と同じ景色を見たくなかったんだから仕方ない。

ここで踏ん張らないといけないのと同時に,次の決断まで止まらないでいたい。