それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

不満があるから不満を言うのではないのかも。

「今やらなかったら生涯できないことはなんですか」

って問いがあったんですが,

なんだろう,ブログ書くことかな。

 

 

あたしはきっと,茶道よりも何よりも自分自身の不機嫌に関心があるようで,誰に頼まれなくても不機嫌に向かい続けていられる気がする。不機嫌にばかり向き合うというのは,物心ついたときからあたしのライフワークだった。幸いにも,あたしの不機嫌は常に視界に入ってしまうものではなく,わざわざそこに視線を向けてるっていう方が正しい。幸せボケなんていう言葉もあるけど,不機嫌の立場に立った方が,幸せになる方向の変化に敏感になれる気がしている。

そう,びっくりするぐらい,人生って悪いことばかりは起こらない。それを経験的に分かってるから,安心して落ち込むことができてる。もし今日も明日も悪くてそれがずっと続くかもと思い込んでたら,あたしは逆に不機嫌にばかり向き合わないだろう。「いま心がマイナスになっても,またプラスになれる」って確信がある上での行動。こう書くと不思議な感じがするけど,「良いことばかりがずっとは続かない」って言葉には納得できると思う。悪い状況の中でさらに悪いことが起こることは多々あるけど,そんな状況の中で何の救いもないことなんて無かった。

ただ,某哲学者の主張*1を援用すると,何もしないでいたら,心は簡単にマイナスなもので埋め尽くされる。というか不機嫌が常で。自分の行動によって不機嫌の状態からプラスに持っていけると思ってる。

だからなのか,いいことばかりあると,自動的に心をマイナスに傾けるようできてるらしい。世の中にはこういう人間もいるんだなぁと,他人事のように。だけど某哲学者の主張が正しくて,人はみんなマイナスに傾きがちならば,それがあたしに限らず人間の基本的な構造のようだ。あたしがここ数年で出会ってきた人は,自信のある部分を表面に出してるような人が多かったので,マイナスが常だとは感じさせなかったけど。そう感じさせないように生きてるのでしょう。そしてあたしは,わざわざ押しつけがましく不機嫌を前面に押し出す人間なのでしょう。放っておけば不機嫌なんて勝手に入ってくるけど,その不機嫌に"わざわざ"目を向けることで,なんというか。

 

今思ったけど,あたしは不機嫌すらコントロールしようとしてるのかもしれない。

 

 

 

幸福は行動の中にある らしいし,自分の行動の果てに幸せになることもあるけど,たいていは他人に幸せにしてもらってるな。いくら不機嫌に向き合ったりしても,自分の力だけじゃプラスになれないくせにね。いったい何をコントロールしてるっていうんだ。あたしは単に,翳りゆく幸せを見たくないんだろうな。

 

 

そこで冒頭の質問「今やらなかったら生涯できないことはなんですか」。この贅沢な不機嫌を味わうことも今しかできないかもしれないし,今の幸せも雲行きが怪しくなるかもしれないことを思えば,幸せを見ておくことも今しかできないかも。

あー,あたしは陰りゆく幸せを見たくないんだろうな。でも幸せが陰っていくところを見たくないからって,現在を見るフィルターをくすませる必要なんてないんだろう。たとえ不機嫌に向き合っても,決して不機嫌をヨシとしちゃいけないな。

 

ここまでは1週間前に書いた記事。

以下は編集後記みたいな追記。

 

 

……などと余計な気揉みをしていたら,本当にいや~な気持ちになることができました。どうやら,最近どうしてるかなと思う人と偶然話せたり,哲学と茶道と教育学を網羅的に見ることができそうになったり,髪型が気に入らないなと思ってたら頭に糞が落ちてきたりする程度には,いいものも悪いものも引き寄せられるようになってきたようです。せっかく心に浮かんだことが現実化するんだから,これは不機嫌に目を向けてる場合じゃないなとも思うけど。最近しっかり嫌な気分にもなって,数ヶ月前に感じてたいい予感も最近は感じることができなくなっていて,それでもまた別のいい予感を感じることがあるのです。同時に,あたしはこれまでの人生でたくさんの人を不機嫌にしてきたことも分かってきました。もし仲良くしていたい人がいるなら寄っていかないとなと思っています。むしろ,自分で寄っていきたいと思える人と一緒にいないといけない。そして,引き寄せたことに満足せず,引き寄せた後に自分がその人に寄っていけるのかどうか,が難しかった,です。

 

 

*1:「幸福になりたいと思ったら,そのために努力しなければならない。…ただ扉を開いて幸福が入るようにしているだけでは,入ってくるのは悲しみでしかない。」