それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

自己肯定感が無いと恋愛もできない。

将来自分がどう生きるかを決めることもできなければ,今自分がどう生きるかを決めることもできない。遠い将来を決めかねているように見えて,もっと近い部分に躊躇してる。

 

卑屈な考え方というのは面倒で,「この程度のあたし」を好きな人間はその程度だ,と思ってしまう。相手に失礼だと思いつつそう思う。憧れることはあっても,自分より遥か高いところにいる人間を現実的な恋愛対象にしないだろう,っていう考え方が根本にある。自分よりキラキラしてる人間といるとその人を羨ましく思う心理もあるし,自分自身に余計自信がなくなったりする。イケメンと付き合ってる自分に自信を持つ場合もあるかもしれないけど,いやそれは自身の魅力とは別でしょう。自分の尊厳を保って生きられるようにというか,平生の自分を保てるように,自分とそう遠くない人を好きになるものなんじゃないか。「この人はあたしにはもったいない!」とか思ったとしても,それでも自分を好きになる人は今のあたしに調度いい,ふさわしい人だと言えると思う。なぜなら,今より違う自分になったら,身の回りにいる人間は違うと思うから。*1

今よりいい感じの自分になりたければ,自分を好きになってくれる人にばかり目を向けていてはいけないんだなぁと,恋愛沙汰にも意識の高さを持ち込みややこしくする。私生活も持ち崩すパターン。

 

ただ,上記の「この程度の自分を好きな人間はその程度」仮説を持っていえば,あたしが好きになる相手も「その程度」,つまり「あたし程度」だろう。今ここにいるあたしが少しマシなあたしになったとすれば,出逢う人間は変わる。今出逢えている人は全て,自分に調度いい,ふさわしい人なんだろう。

一時期婚活ビジネスに手を出していた時に感じたのは,これから出逢うかもしれない人間に期待するより,今出逢えている人々を大事にするべきだということ。ニュージーランドに行ったときに感じたのは,良くなっているかもしれない自分に向かって意識高くなるのもいいけど,未来までの過程じゃなくて今日生きた一日がそのままあたしの人生だということ。未来はいつか今日になって過去になる以前に,今日は今日。

 

「この程度」の自分が頭にこびりついていると,相手も「その程度」に見えてしまうというのは本当に恐ろしい。「その程度」の相手を受け入れることは「この程度」の自分に甘んじることのように感じる。自信はいらないけど自己肯定感が欠如してると恋愛もできない。恋愛できないだけならともかく,進路やら将来やらの決定もできない。

あれもこれもできないあたしに必要なのは,受け入れる覚悟をすること。受け入れるというのは,自分自身を今以上にも今以下にも見積もらないこと。将来良くなってるかもしれない自分で今生きることは当然できないんだから,「この程度」の今の自分で生きていくしかない。「その程度/この程度」の今を嫌がって避けてばかりいられない。もちろん,「その程度/この程度」を受け入れてからも,「この程度」のレベルは一生上げ続けていきます。やっぱりあたしは,さらなる「この程度」の段階に行って,今の自分には考えられないことを考えたい。

 

 

*1:20代前半の学生だからこそこんな勝手なことを言っていられるのですが。