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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

言葉を盛る必要はない。

茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶を点てて 

 飲むばかりなる ものと知るべし」

と言った利休は確かに正しい気がしている

 

茶道に関する本を読めば読むほど

過大評価のような気もしてくるのです。

ただの審美主義ではないし,個の確立ができるし,自然と生きることも,

俗世から解放されたかのように生きることも可能。

自分もその「すごみ」に興味を持ち,研究対象にしようとしている

 

それでも,茶道は何かの唯一の方法であるとは断言できないし証明できないし

しようとも思わない。

茶道が絶対だとは微塵も思ってない

 

でも「茶道なんか」と言われればカンに障る自分も確かにいて

良さを説明できるようになりたいから茶道をもっと知る必要がある。

そうやって研究していくうちに,

茶道絶対主義になってしまったら,それは嫌だ。

 

 

これは自分の恋愛関係にも言えることで

どんなに好きな人間でも大嫌いな部分があるし,意味もなく腹立たしい部分がある。

相手が悪いわけじゃないと思うんだけど,盲目的になんてなれない。

相手を好きでいる自分ってきっと快の状態だけど,絶対にそれだけじゃない

 

 

今大好きな趣味や人は,

本当にそれ自体に意味のあるものなんでしょうか。

 

 

「茶道なんてやってもやらなくても同じ」「なくていい」という発言に

容易に同意できる人間はたくさんいると思う。

利休自身,茶道の価値をそこまで盛ってない気がする。

茶道自体に何も意味はないのではないか

でも意味や意義を見つけた人間は茶道に価値を感じる。

 

茶道自体には何もないけど

そこにないものが見えるようになるんじゃないか。

それが実感できるのが,茶室っていう場だっただけなんじゃないのかな

 

 

「生きていてもいなくても同じ」「いなくていい」って人間に対して言ったら

茶道のときほど同意する人間は多くないでしょう。

でも同じに感じるんです。

人間って生きてるだけじゃ,いてもいなくても同じなんじゃないのかな,と。

それで価値がほしくなって意識高くなったりもがいたりする。

価値なんてきっとそこにはない

でも,ないものを見つけ出すなんてことも,生きているとできるようになる。

 

 

いろんなことができるっていうだけじゃ全然すごくない

茶道が総合芸術だと主張する人は

きっと、茶道がなにかの縮図に見えたんだと思う。人生とかの。

 

一つの芸術/作法の中に人生・精神論・広義の宗教・世界観を内包して

言葉を重ねることで「すごみ」を説明しようとする。

でも言葉を盛ればすごさが伝わるわけじゃないでしょう

 

本当は茶道には何の意味もなくて

人間がそれを見出そうとする中に価値があるのかもしれない。

茶道している人にはたくさんあるように見える「すごみ」は,

たった一つの言葉でまとめてしまえることかもしれない。

茶道をまとめると,言葉でもないかもしれない。

 

 

人間は,茶道を馬鹿にできますか。

正しくは,「馬鹿にする必要もない」ですよね。

意味を見出す人には価値があって

知らない人には一生価値を持たない。

 

たとえあなたがどれだけ有益な人間であっても

関わることがなければ

「生きてても生きてなくても同じ」であるように (極論です)

茶道に意味を感じる人は,そこに人生を見ている

ただそれだけのこと。

 

 

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