それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

正しさの先に正しさが無いのなら

楽しむことに前提を置いてたら

今のままでも充分楽しい人生が

今よりもっと楽しくなったかな?

 

こうやって生きてたから今

こんなに楽しいと思う自分がいるので

これまで変わってきませんでした

 

太ることを気にせず食べたいとかいう願望はあるけど

遊びたいとかいう欲がパッと思いつかず

そのおかげでこうして生きていられる

 

「たくさんの人に囲まれてた方が幸せでしょ」

「人を回す側になれ」

「わがままになれ」

他人の幸福観はそれはそれで大いに結構だけど

それが自分に向けられた瞬間

非常にコメントしづらい !

 

あのですね,

それはあなたの物差しです。

 

こういう生き方をしてきたからこそ自分の周りにいてくれる人が

少しでもいることの方が

よっぽど幸せでしょ?

こんな自分の傍にいてくれる人だから

わがままにもなれるし協力も得られる

そしてそれがとってもありがたい

 

 

あたしが唯一なりたいものは

ずっと言ってるんだけど

「出逢って良かったと思われる人間」です

 

例えば自分のこと嫌いな人間と会う時間はちょっともったいないけど

自分に会いたいっていう人に会う時間は無駄ですか?

 

自分が「この人に会いたい」って思ったら会いに行くと思う

(関係ないけど,会いたいときに会わないのは高校のときからか。)

方向性決まってないと,会いたいと強く思う人がいないのかも。

 

 

あたしのこと心配して言ってるのかもしれないけど

その度に

自分の人生否定されてる気分になる

 

この人生をもっとよくできるのは自分でも分かってる

変えたいと半年前ぐらいからずっと思ってる

あたしはどうやって生きていけばいいんだろう。

このまま生きていくと,どうなるんだろう。

 

そんなもん分かる訳ない

だから。

 

あたしから正否の判断を抜いたら

あたしの気持ちは どこにあるだろう。

 

 

広告を非表示にする