それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

100%好きになるということ(人間編)

 

極端な人間なので,見逃せない欠点があると好きと言えなかった。

しかしこの世は,100%好きになれるものばかりで溢れてはいない。好き嫌いを考えないほど,どっちでもないものだってたくさんある。

 

30%ぐらい好きだった人,40%は好きになれたもの。それぞれについて欠点だって並べ立てられる。
しかしそれは「嫌い」だとか「最悪だった」というよりは,「100%の好きではなかった」のかもしれない。または,何らかの理由で100%まで好きになりきれなかった。ただそれだけなのだと思う。*1

私にとって100%じゃなかった人,むしろマイナスな人だって,誰かの100%を満たしている可能性はある。(だからといって,私にとって加点になる訳ではない。)


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今思うのは,100%好きな人だけがありがたくて特別なのではない,ということ

30%だった人も20%しか好きになれなかった人も,人生に影響を及ぼしているのだと思う。「100%の好きじゃないのに自分に影響を及ぼした人」は,逆にすごい。

吹けば飛ぶような感情でしかなかった人でさえ,おそらく今の私に影響している。100%じゃなくたって,人生を変えるに足る人はたくさんいる。

 

どんな人間だって,大好きにも大嫌いにもブレることがあり得るから。
きっとどんな相手も,もっと大嫌いになることも,もう少し好きになることもできたのだろう。

 

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だから,「20%や30%の好き」にガッカリする必要も無いのかもしれない。
100%に近づけていくことは長期的な努力目標であって,結局全然%が増えなかったりマイナスになってしまったりしたことを,そこまで悲観しなくてもいいのだろう。

もう,全然100%なんかではなかった誰かを,これ以上責めなくていいはずだ。

私にとって最も嬉しくない言葉ばかり使う,むしろマイナスだった有象無象を,一生恨み続ける必要もないのだろう。「私にとって100%じゃなかっただけ」だから。

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人間同士の気持ちが,常にイコールであることはない。

100%にしていくまでを楽しめることが,よっぽど重要なのだ。 


そして必ずしも100%にならなくていいということは,100%になればいいなと思える人,そしてその過程が楽しい人とだけ,関係をやっていけたらいいということ。

過程が楽しくない誰かに対して,それ以上好きになれなくたって仕方ない。相手やこちらが悪いわけでもないのだろう。
 

 

 

***

実は,上の文章を書いてから4ヶ月以上が経った。

20%からやはりマイナスになってしまった人も,どちらでもない人も,もう少し好きになれそうだ!という人もいる。

ただ,マイナスになってしまった人に対して,どうしたいという思いは全くない。 

 

それよりも,好きになれそうな人にそのことを伝えることが,好きを100%に近づけるためには必要なのだろう。

 

 

 

番外編として,お茶を100%好きと言えるまでの軌跡はこちら。 

 

*1:もちろん,70%ぐらい好きだった人が10%好きだった人と同じ位になってしまうのは,カテゴライズが下手すぎる。もっとグラデーションをつけるべきだとも思っている。

目の前の選択肢に,不満を言わない。

これまでは目の前に起こったことに関して,これから未来をどう変えようか(どうやったら変わるのか)を迷ってきた。

それは,過去にしてきた選択の結果が目の前に現れているのに,今これからする選択肢しか見ていないことでもあった。

今までどんなに選択を誤ってきても,次に選ぶ選択肢で全部チャラになるかのように,次の一手で「正解」を選ぶべく迷ってきた。そしてまた誤ってしまったなら,すぐに次の「正解」を選ぶよう焦らされる。

過去を変えられない代わりに今何をするか,その連続が人生だ。

ただし,現実を直視せずに次の一手を探すことは,時に過去を否定する態度だった。

 

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今選んだ選択肢によって「よりよい未来」になるように思ってきたけど,その「よりよい未来」は,絶対に自分の身の丈程度の未来だと思う。
そしてその「自分の身の丈程度」の度合いは,これまでの行いである程度決まっていると思っている。

つまりどれだけ悩んだところで,「自分の身の丈程度」を超えてくる選択肢は,そもそも目の前には並んでいない。


こんな選択肢は自分にそぐわないと思ったところで,目の前に広がってるのは,これまでの自分(つまり今の自分)程度の選択肢だった。その中のどれを選んだところで,身の丈以上であることも,過剰に身の丈以下であることもない。

たとえ選択肢と理想のギャップに不満足だったとしても。

 

 

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それに気づいた頃,自分に飛び込んでくる話は,確実に今の自分ならできる話なのだと思えるようになった。
身の丈以上の話が舞い込んでくることは基本的にないと思えば,変な謙遜や躊躇いなく,ちょっと背伸びしてでも引き受けてみたりできる。
逆に,昔の自分でもできそうな話は,選んでも選ばなくても大差ないと思って断れた。

いま何かを断るとしたら,少なくとも「自分の身の丈」とか以外の理由があるからだと思う。

 

それでも私は,「自分の身の丈」を少しずつでも上げていきたくて,いつも目の前の選択肢に満足できずにいた。

確かに過去を振り返っても,それぞれの選択肢とその結果は,とても自己評価を満たすものではない。各選択肢のレベル(が低いこと)を認めたくなくて,引き受けきることができなかった。

でもそれを繰り返すうちに分かってきたのは,今の自分が,自分の身の丈を受け入れられない程度の人間でしかないことだった。

 

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だからこそ,少なくとも私に影響する範囲で起こっている全ての出来事は,私の身の丈に合っている。

個人的な不満足や悲壮なんてさておき,「他の可能性が今目の前にないこと」をまず受け入れるべきことなのだと思う。
でも「可能性」である限り,今後どんな選択肢だって目の前に現れうる。それは希望であり,不安定性でもある。

 

喜ばしい選択肢(例えば転職先のお話など)はすぐに引き受けられるものの,悩ましい選択肢に関してはそうではない。その可能性(希望や不安定性)ばかり考えて,目の前の選択肢を引き受けるだけの理由を見つけられていない気がする。
でも必要なのは理由ではなく,目の前にあるその選択肢を否定しないことなのかもしれない。


それは,目の前にある「それ」を,今の自分は「これ」なんだと受け入れることだった。

目の前の選択肢は,正誤も悲壮感も差し置いて,目の前にある。

 

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今から選ぶ選択の結果としての「よりよい未来」を見ようとしてきたけど,「他の可能性が目の前にない現在」が,既に選択の結果だった。「よりよい」はベストとは違うし,不満足も不安もある。それでも。


「他の可能性が目の前にない現在」も,おそらく悪いものではない。 

そう思えるような選択を,これまでもできていたらしい。

 

これからだって変わる可能性が大いにある,むしろ変わっていきたい。
ただ,現在を受け入れたら訪れた安寧を,忘れないでいたいと思ってもいる。 

 

 

ちょっと前に書いた,こちらの続きの話でした。

(先日退職したばかりですが,選択に不満足云々は次の勤務先の話ではありません笑 転職先には大いに満足しております。)

 

選択と「よりよい未来」に相関はない

 

古くからの友人と,誰々が結婚したという話をしていた。その子は「あの人結婚したんだ!」と言った二言目には「あの人あまちゃん(私)と結婚したかったやろうね」と言った。

傍から見て結婚しそうに見えていたところで,私は「その人と結婚しなかったであろう理由」を50個ほど挙げられる。ある予想が現実にならなかった理由は,いくらでも挙げられる気がした。

何かちょっとした理由で「ただ現実にならなかった」のではなく,「現実にならないだけの理由がある」と気づいたのはそのときだ。その理由も1つ2つではない。

本人が自覚できる理由なんて,ほんの一部なのだ。

 

 

去年の春頃(修論提出前)に,起こったことは全て正しいという結論に辿り着いた。しかし同時に,自分の行動と選択で人生が決まっていると思っていた若かりし頃から,人生は行動と選択"以上"のものだと気づいたのもその頃。

上述の「本人が自覚できる理由」以上のものに,人生が左右されていると気づいたのだ。

例えば,家元のお茶も,流派も何もないお茶も,同時代的にこの世にある。どちらが正しいとかどちらが優れているとかもなく,それぞれに現代に残っているだけの理由がある。そこに,正しさや優劣に関係なく,現実に起こっているだけの理由があるという圧倒性を感じたのだ。

修論が何かの批判ではなく,「圧倒的肯定」という結論に至れたのは,上述の思考の流れがあったから。

 

しかし「起こったことは全て正しい」という主張すら,「起こったこと」と「起こっていないこと」を二項対立にしていた。起こったことの圧倒性を根拠に,「起こっていない」ことを否定していたのではないだろうか。

起こっていないこと「より」正しいと,現実と現実でないものを,これまで比較し続けてきた気がした。

 

起こっていないことにも,起こらなかっただけの理由があるのに。
それも,無下にできないほどたくさん。

 

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 今現実になっていないことは,私の努力が足りなかったとか,あのとき返事を間違えたからとか,そんな私側の変数だけで決まってはいない。

「自分側の変数が変わる→結果が変わる」という因果関係を意識しすぎていたと思う。

 

上記の矢印の向きを信じているから,人は目の前の選択肢を前に悩んで「より正しそうなほう」を選べば人生がよくなると思っている。

でも最近は,この矢印の向きが,それほど絶対的なものでもないことが分かってきた。

 

 

例えば,上で書いたようなことを,急に考えられるようになったことは,私にとっては結構な思考の変換だった。今までずっと,「正しさ」を求めて選択を悩んできたからだ。

では思考が急に変わったのは,目の前にいる人がとんでもなく素晴らしいからだろうか?

その人が気づきを与えてくれたとして,そんな素晴らしい人とは,ずっと一緒にいるべきだろうか?

 

 

おそらく違う。

 

「あなたが素晴らしい→気づきを得た」

「素晴らしい気づきを与えてくれた→その人といるべき」

この矢印のような因果関係は,本当はない。

 

急にこの世の因果関係について考えた私。あなたといる私,それぞれは事実だ。

でも,私が考えているほど,それぞれは繋がってはいないのだ。

 

出来事は,同時に起こったり順番に起こったりするのみで,私がここで「因果関係」や「矢印」と呼んでいるものは全て「タイミング(前後関係)」なのかもしれないなと思った。

 

そこを自覚せずに,選択肢自体が正しいかどうかで悩んできた。
例えるなら,「目の前のあなたがとんでもなく素晴らしいかどうか」などを気にしていたのではないかな,と思ったのだ。

でも目の前の人が素晴らしいかどうかって,その人自身というよりタイミング(時期)に左右されてたのかもなと。

 

 

↓ 長くなるので,他の例を出しながら別記事に分けました。


 

 あと多分これも近いこと言ってる。