人を傷つける言葉の対処法,覚書。
人を傷つけるようなことを言って,虚を衝いてやったぞと得意気になっている人たちや,その指摘が間違ってはいないとして「それを言うことで私にどう思わせたいのか」と思う人たちは,少なくなかった。
ただ,それによって私がどんなに嫌な思いをしたとしても,たとえ今でも根に持っていたとしても,誰一人私からお茶を取り上げることはできなかった。*1
だから今は,何を言ってくる人がいても,彼らは私にお茶を辞めさせられない程度の影響力しかないと分かる。私の人生から消えたのは,お茶ではなく彼らの方だ。
言われた言葉を忘れにくい性質で,その人自身に関する記憶からまず薄れていく。そして抜け殻になった言葉だけ,いつまでも勝手に覚えている。
その言葉そのものより,その後自分の中で解釈されていった結果しか,頭には残っていない。
生身の心で言葉を聞いてみた場合
ガバーッと開いたむき出しみたいな心で,これまで人間に会い続けてきた。大いに言い返すし,常に言い返し足りないが,言われた言葉は覚えている。流れ込んできた分だけ,聞き流せばいいのに。
人間の防衛本能でもあるが,相手より優位に立たないといけないかのような言い争いもある。きっと向こうは,自分ならこいつの虚を衝けるぞとばかりに,私の懐に入れたかのような気持ちだったのだろう。
そこで一番手っ取り早い,私が最も時間をかけてきたもの(ここでは「お茶」や研究)や,それにまつわる生き方ばかり馬鹿にされてきた。
そのくらいでは私の生き方は変わらない。ただしそうやって,言葉ばかり心に留めながら人に会い続ける限り,これからも傷ついていくのだと思う。
なぜ「心を開くのは自分から」なのか
こちらが最善を尽くした上で傷つけてくる人なら,こちらに非があるのではなく,相手のパーソナリティーに問題があると判断できる。
こちら側の落ち度である可能性を捨象できれば,相手の問題だと言えるのでこちらは悩まなくていい。「愛を投げかけるのは自分から」言説も,ここに繋がると勝手に思っている。
どこまで自分の問題で,これ以上は相手の問題と,分ける必要がある。これは自分を守るためでも,相手を責めないためでもある。
多くの場合,こちらにも相手にも非があって,話し合いとか喧嘩が平行線になってしまう。けれどこちらが最善を尽くせたら,もう平行線にはならない。相手に見切りをつけ,悩むことをやめられる。
同じ温度でお互いに向き合うことはできない
もっと大事なのは,こちらが最善を尽くしていたら相手も尽くすだろうと期待しないことだ。こちらが心を開いたところで,相手がこちらを軽んじてくるだけのことも,大いにある。めちゃくちゃある。
こちらの出方が何であれゴミのような対応をしてくる人であれば,それはその人のパーソナリティーの問題だ。こちらが怒る必要もない。
相手は相手にとっての常識で私に対峙している。常識が違えば,自分も相手を満足させる対応などできていないだろう。
他人からのゴミ対応に傷つかなくていい
相手に問題があるかもしれない可能性を危惧してもしょうがない。もうそれは相手の発育過程とかここまでの経験による。それは下手すれば,私に会う前から決まっていたこと。ある人の現段階のパーソナリティは,私の預かり知らない所与のものだと考えていい。
だからゴミ対応は私のせいではない可能性がある。少なくとも,私に対してゴミ対応をする人は,他の人にも似た対応をする可能性があるので,こちらだけに原因があるわけではない。
他人にはどうあれ私には優しいだろう,私のことは裏切らないだろう,とかいう期待(もはや自惚れ)は,誰も幸せにならない。
「傷ついたところで」と思えること
他人の言葉をなんとも思わない人は,相手に期待をしていないのだろうけど。そう言う人は逆に,あまりにもあまりにも,傷つかずに済むことにこだわりすぎている。
人生では数多の人とすれ違うから,たまに事故に遭う。
生身で歩いていると,よく傷つく。
それでも今のところ生きている。この限りにおいては,誰も私の人生を止められない。
彼らの言葉を「傷つく」と表現したが,冒頭で言った通りその言葉に影響力がないという点で,あまり私に響いていないのだろう。私を傷つかせることができるのは,その言葉を反芻し悪く解釈する自分だけ。
だから,他人に対して不必要に身構えないこと。
いざというとき「この人はゴミ対応してくる人だ」というカテゴライズを躊躇わないこと。
心を開いておいた上で,こちらを大切にしない人にそれ以上心を砕かず,どんどん見切りをつけていくこと。
以上全部引っくるめられたら,懐を曝け出しながらも,クリティカルには傷つかず,なんとか生きていけるはず。
少なくとも,こちらから先に相手を傷つけることは減るだろう。
一人で描く夢は,遅かれ早かれ終わる。
先週note公開した「夢」に関する記事の内容は,大別して以下の3点。
・才能が無いから叶わないのではなく,人に望まれていないから叶わない。
・家族や友人以上の,半径数メートルより大きな世界に応援される能力を「才能」と呼ぶ。
・夢を叶えるのが難しいのではなく,世界に応援されるような,個人的に完結しない夢を描くことこそが難しい。
noteでは躊躇われた結論を一言でいえば,個人的な夢が叶ったり有名になったりしたところで,とりたてて人のためにならないし応援されないということだ。
家族や身近な人は喜ぶだろうから,誰も幸せにならないとは思わない。ただ,夢が叶ったときに,周りの人が自分以上に嬉しいことは少ないかもしれない。*1
夢が叶ったときの自分なら大きなことができそうで,誰かを幸せにできそうな気がする。けど実際には,夢が叶った状態を維持する方が忙しい。そしてその労力と,誰かを幸せにする努力は,方向性が違うことが多々ある。
夢を叶えたりすることは,本人が思っているほどには,人の役に立たない場合もあるのだ。そして叶ったところで自分しか嬉しくなかったら,(口ではなんとでも言えるが)実のところ,誰も応援してくれない。
幸せになっていく道を自ら描いて,それを遂行する能力も確かに並大抵のことではない。そこで自信を得た人を,何人も知ってる。
ただ,「才能」をさらに違う言葉で定義するならそれは,自分だけが夢を見るのではなく,誰かに夢を見させる能力のことだ。
このとき才能とは,自分一人の夢を叶える能力のことではない。
誰かが描いた夢が自分が夢に重なっていること,もしくは自分が描いた夢を他人にも見せることのできる能力のことだ。
私は今まで自分のためだけに「お茶」をしてきて,今だってきっとそうだ。「これただの趣味でしょ笑」と言われ続けてきた。
たとえば趣味という言葉は,自分の行為にお金が発生していないことを擁護してくれる。もし逆に「ただの仕事」だったら,お金が発生していない時点で大問題だろう。
趣味でしょと言われることに確実に腹が立っていた。しかしそう言われるのは,誰のためにもなってなくても,自分だけが幸せでもいい世界で「お茶」をしていたからだ。
趣味と言われている間は,誰かを幸せにすることや,自分の描いた夢を誰かにも見てもらうことを考えなくてよかった。
今思うのは,誰かが描いている夢を私が応援できたらということ。
まず私が,誰かの夢を見るのだ。*2
その応援というのも言葉だけではなく,もっと具体的で自分もそこに関与しているようなアクションでありたい。けど才能のある人や,頑張っている人や好きな人たちを,具体的な方法で応援することにも能力が必要なのだとも最近思うようになった。*3
だから,趣味でとどまっていたら人の役に立てないと自覚するときが,真面目にやっていれば必ず訪れる。そこが天井なのだとも思う。
そこから先を考えなければ,ずっと趣味でやっていける。しかしその天井が見えたときに思うところがあるのなら,それは「趣味という範囲に留まっていてはいけない」ことを意味する。
写真でもわかる通り,毎日一人でお茶をしてきた。ただし自分が一人だったことに気づいたのは,誰かと関わった後だった。下手に人と関わるまでは,寂しいとか虚しいとも思わないものだ。
ほんの一例でしかないが,例えば修士論文をnoteで全文公開したとき,拡散を手伝ってくれる人は意外なほどいた。自分が将来的にどうお茶をしていくのか悩んでいたことを話せば,私自身より考えてくださる(そして具体的に手伝ってくださる)方々にも出逢えた。
ありがちな愚痴として片付けられてもおかしくないところを,真面目に取り合ってもらえてこちらが驚く。(一人でいる時間が長いと,応援され慣れていない。)
お茶も現代茶道の研究もずっとやってきたことだったのに,今の自分は1年前や半年前と違うのだと,そのとき気づいた。
それと同時に,個人的に幸せになってありがたがってるだけでは,もう不義理だと実感した。趣味ではもう,特に何もお返しできない。もう天井は見えてる。
一人で夢を見る時間は,遅かれ早かれ終わる。
夢を見るのをやめるか,
その夢を誰かと一緒に見ることになるのか,
どちらかの理由で。
noteに投稿した記事↓(写真多め)
当ブログに投稿してあった記事↓(テキストは上と同内容)
あなたの夢はなぜ叶わないのか。
ある映画を見て,「自分の夢がみんなの夢になったときに,その夢は叶うのだ」と,どこかで聞いた言葉を思い出した。「頑張る」とは大いに孤独で,自分に集中する作業でありながら。
そこで印象的な,自分が勝つためだけにする将棋はもう終わったんだろう,という唯一無二のライバルの一言。
「勝つ」という個人的な目標
26歳までに四段になれなければ一生プロへの道は断たれる将棋界で,史上初めてサラリーマンからプロ棋士になった瀬川晶司さんの実話映画。プロへの唯一の道が途絶えた後,本人の実力と周囲の後押しがあり,35歳で再びプロを目指すのだ。
高校も大学も通わずに将棋だけ続ける「奨励会(日本将棋連盟のプロ棋士養成機関)」の中では,将棋をする理由が「勝つこと」「プロになること」だけになる。26歳で夢破れ,それでもアマチュアとして将棋をする中で初めて,「勝つ」以外に将棋をする理由を見つけた(思い出した)のだと思う。
実際に,映画の中で瀬川さんを応援したのは,奨励会の外の人ばかりだった。既に奨励会に入れる年齢じゃなかった人,将棋界には全く縁のない喫茶店や会社の人,一瞬だけ現れる藤原竜也。
応援される夢を描けることが才能
夢という言葉は,いつも才能と一緒に語られる。
ここで冒頭の「自分の夢がみんなの夢になったときに,その夢は叶う」という言葉を引用するのであれば,才能が無いから叶わないのではなく,人に望まれていないから叶わないのではないか。
どんな人も,家族や友人など,ごく近しい人々には応援されているはずだ。
ただし自戒を込めて思うのは,半径数メートルより大きな世界に応援される能力を「才能」と呼ぶのではないかということ。
つまり,夢を叶えるのが難しいのではなく,より大きな世界に応援されるような夢を見ることこそが難しいのだ。
それは夢の大小の問題ではない。自分や家族が幸せになって終了というような,個人的に完結しない夢を見ることが凡人には難しい。
個人的な努力が他人の夢に重なること
夢に向かう努力自体は,たった一人でも続けなくてはならない。しかし一般に努力は近視眼的で,個人的な目標や矜持の維持のために遂行される。人に影響を及ぼせない限りは,自分一人に閉じている。
しかし,他の人が実現できなかった夢や世界が自分の夢に重なるとき,初めて夢は対外的に開かれる。
瀬川さんが将棋界の歴史に残した衝撃を踏まえても,人や世界を変えられない限り,難しい夢は叶わない仕組みになっている気がする。
そして,人や世界を変えるような夢を背負える人のことを,才能の持ち主と呼ぶのだとも思う。
↓「伝統」的な世界あるある,茶道版はこちら。
↓脱サラ棋士にご関心のある方は,サラリーマンが茶人になっていく様子も面白く読めると思います。サラリーマンがどう「伝統」の中を生き抜き「お茶」をしていくかに関する論文でもあります。