それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

変わっても,変わらなくてもいい。

 


寝不足になると,粘膜をつくるためのビタミンCが欠乏して鼻血が出やすくなるらしい。

4時過ぎに寝付けたと思ったら6時に起きるという生活が,気づいたら数週間続いている。鼻血が出るのは毎回寝る前なので,止血していてまた寝る時間が遅くなったりするのだ。

 

 

お茶を点てては毎日写真を撮り続けてきたが,最近うまく撮れない,と言い続けている時期(今を含む)は,不眠の時期に重なる。写真がスランプだなとは最近ずっと感じていたが,睡眠不足に気づいたのはその後だ。

お茶写真の不調の方に先に気づいていて,もう「お茶が体調だ」と思った。

 

その晩,赤く染まるティッシュで鼻を押さえながら,今度は「お茶が血液だ」と考えた。 

血しぶきとかスプラッター趣味のない人でも血液は流れていて,それ無しには生きられない。

好きとか嫌いじゃなく,ただ私の中に流れている。



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お茶の活動も好きでやってるんでしょとか言われる瞬間,私はお茶を,好きでも嫌いでもない。

 

なんでお茶してるんですか,好きなんですか,と訊いてくる人には訊き返したい。

「あなたは呼吸するのが好きで生きてるんですか?」

 

 

お茶や血を以ってしても世界の何をも変えられないのなら,今後も何もできないのかもしれない。

私のお茶は,遂に何も変えなかったな。と傾く思考に,不調が長引く予感があった。

 

 

数ヶ月分溜まったものを友人にぶつけた瞬間,39度近い熱を出し,関節と胃の激痛。その友人には迷惑をかけ,寝てても今度は滝汗で起きるようになった。

やはり,お茶の不調が体調だ。

 

 

熱の症状だけは引いたので,会社の方はリモートワークをさせていただいた。前日までSlackなどのテキスト以外では誰とも喋らない状態のまま,新幹線に乗ってプレゼンをしに行った。久々の発話は,会場の皆さんとだった。

プレゼンが終わった安堵のあまり気づくのが遅かったものの,拡散していただいていた。プレゼンして良かったなとまた安堵した。

 

不調だからといって(愚痴以外の何かを)何も出さないと,ずっと不調なままのタイプなのかもしれない。

前にドイツ人映画監督に「君の写真の何枚かはいいけど,毎日アップしなくてもいいんじゃないか」と言われた。その人は単純に写真の見栄えの話をしていたのだろうけど,残りの写真は上手じゃないと言われているのと同義だった。

写真映えのために撮ってるのなら,不調な日は撮らない方がいいことぐらい分かってる。

 

それでも,うまく撮れた日だけ,綺麗な写真の日だけ生きていた訳ではない。本当はムキになって言い返したかった。

「いいことがあった日だけが,あなたの人生なんですか?」

 

 

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好きとか嫌いとか,いいことがあったとか,嫌なことがあったとか。
そんなことはお構いなく,血液みたいに流れているものがある。人生みたいに流れていくものがある。

先の文章で私の茶は何も変えなかったと言ったが,私が変えなくても変わるものもある。放っておいても減るものがあり,増えるものがある。

 

だからこの世は,変えても変えなくてもいいもので溢れているのだ。

それはこの世に「好きでいても,嫌いでいてもいいもの」しか存在していないことと似ている。どちらが正しいでもなく,好きなものがあった方が楽しそうとか,嫌いなものに焚き付けられて頑張れそうとか,そんな予感があるだけだ。

 

後悔や不快な感情は,変えられなかったことや,変わってしまったものへの執着だったように思う。

でも,世界は変えるものではないのかもしれない。

どう変化してもしなくても,ただ状態が在るだけなのだ。

 

 

例えばしょうもない人を一生嫌うとしても,好きな世界で成功したとしても,どっちでもいい。そのくらい,「自分の変化」は小さい。*1

 

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まだ続く不調の中で得られたのは,好きなことをすれば,いいことがあれば幸せになるような,シンプルな解答ではなかった。

それでも件のプレゼンの後,旅先でポツンと思ったのは,「なんであれ,どうやらもう既に歩き出しているらしい」ということだけ。


明日には歩みを止めているかもしれない。

今日好きだった人やものを,もう好きじゃなくなったり,あれもこれも好きだと言ってるかもしれない。

 

それでいいのだろう。

 

 

*1:「私が小さい」ということを懇切丁寧にお伝えくださった大人がいらっしゃいましたが,誰が悪いでもなく「その人とは一緒に仕事できない世界が今のところ在るだけ」だと思う。

「それがあなたです」が褒め言葉であること。

 

どんな人間関係でも,後から嫌いになることはよくある。

しかし最初から相手の欠点ばかりを見ているのではなく,むしろニュートラルな状態,もしくは好ましく思っている状態から,だいたいの人間関係は始まるのではないか。


そして人間は完璧ではないので,いいときばかりではなく,失望させ合う。


その連続の先に,「好きなままでいさせてくれない人」を嫌いになっているのだ。

 

 

許せなかったある人のことを話したとき,友人は私に共感するでもなく,「(その相手は)普通の人だったんだね」と一言残した。

何が「普通」かは今でもよく分からない。ただし私はいつも「相手が自分ほど頑張っていないこと」に怒っていた。

男女,年上年下に関わらず,自分より頑張ってる人は絶対にいる。その中で,「自分より頑張ってない人」に時間を割く意味が分からなくなり,「好きなままでいられなくなる」ことはある。

 

 


年をいくつ取っても思うのは,同じ山を一緒に登れる仲間はなかなかいないということ。

しかし今より若かった頃は,自分がどんな山を登っているかも分からなかった。そんな状態では,誰かと一緒に登ることは難しい。

 


独りだろうと登り切った山頂では,別の山の頂にいる誰かが見えるだろう。

その誰かのことは,すぐに好きになれそうな気はする。

同時に,「どんな山を登っているのかよく分からない人」のことを,「自分より頑張っていない人」と呼んでいたことが分かった。

 

 

でも,どんな人も「生きること」でまず一生懸命だ。

こういう山を登りたいんだと,まだ喧伝してる段階の人。その状態を「一生懸命」と呼ぶ人もいる。

私にとっては登る気にもならない山を理想とする人だっている。


それが「世界は私ではない」という状態だ。

 

 

10年ぐらい前から,山を登ることばかりに必死になってきた。

でも,穴掘ってる人もいるかもしれないんだよな。

 

 

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違う価値観で生きている人を好きになることや褒めることは,私にとっては難しい。

しかし,自分や何かとの比較でしか対象を評価できないとき,その行為は幼稚ささえ感じさせる。

 


例えば,これまでの人生で一番的を射た言い方だと思ったのは

「みんなはあなたじゃないから。

自分ができるならみんなできるっていうのは,ワ◯ミの社長と一緒だから」だった。

 

その言葉が批判でなく受容だったことが,嬉しかった。

自分が何かより優れていると言われなくても,どんな優れた人も,どんな優れてない人も,私ではない。

誰かと比べるまでもなく,その人がその人であることを,そのまま認めることだってできるのだ。

 


 

相手に「これがあなたです」と言われて嬉しいこと。

私の言った「それがあなたです」が,相手にとって褒め言葉であること。

 

 

それが求めてる人間関係だ。

「これがあなたです」という言葉が双方向的に嬉しいこと,その状態を「好き」と呼ぶべきだったのだ。

 

 

そうやって受け入れられることは普段ないから,自分で「これが私だ」と思えるための努力が必要になる。

それが私の言う,いつまでも「山を登っている」状態だった。

 

 

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「これが私だ」と気付いた時の,

そして「これが私だ」と自分に言ってあげられた時の,

あの気持ちで今日まで生きてこられた。

 

 

その気持ちを誰かに与えられるのなら,それは肯定であり愛なのだと思う。

 

好きとも慕情とも名前がつかないところで,「それがあなただ」と言えること。

「それがあなただ」と言うことで,私が感じたようなあの気持ちを相手に感じてもらえること。

 

先述の「みんなはあなたじゃない」然り,自分は散々肯定してもらってきたくせに。 

私はこれまで四半世紀,「それがあなたです」という言葉を,肯定とともに投げかけることができなかった。

 


 

人は裏切る。傷つける。


離れていくし,離れたくなる。

 

 

人の繋がりの脆さを,今ある状態の不安定さを,これでもかと知っている。

 

 


しかしその脆さは,「目の前のあなたを肯定しなくていい理由」にはなり得ない。

同様に,私を否定していい理由にもなり得ない。

 


これまで「それがあなたです」と受け入れてもらってきたように,誰かの,世界の脆さも受け入れること。

世界の脆さを否定することなく「これが私だ」を積み重ねていくことは,本当は可能だ。

そして自分はもう,その段階に入るべきだ。

 

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抱えているカルマの一つが「愛」なので,「愛」に現時点なりの答えが出る度に,今いる世界よりもっと広い世界に,一つひとつ何かを残せるような気がしている。

 

そして「肯定」や「愛」に気づく前と気づいた後では,世界に遺せるものが違うだろう。

 


ここ数ヶ月考えてきた,今思う「肯定」の形を,ここに留め置きたかった。

 

ここからの1年もまた,「愛」や「肯定」に答えを出しながら生きていけるのなら。

五里霧中すぎるこの日々が,これまでの四半世紀より楽しくなる確信だけがある。

 

 

桜の楽しみ方を知らないということ。

 
国が変われば,家の外で酔っ払うことが恥だと考える文化圏もある。桜の下でお酒を飲むのが理解できない(やりたいと思わない)と言ってた人がいて,その人も海外育ちだった。お酒が公然と飲めることに価値を感じるのは,日本人ぐらいということだろうか。
 
桜がお酒を飲む名目であったり,デートに誘う口実であったり,桜自体が目的ではないことは多々ある。ここでいう「桜自体が目的」とは,どんな状態だろうか。
「桜自体を目的にすること」を「桜を楽しむ/味わうこと」だと仮定しても,桜の楽しみ方が「桜の下でお酒を飲むこと」だったり「気になる人と桜を見ること」だったりする場合,議論は堂々巡りになる。
 

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発想の乏しさに起因するかもしれないが,私が桜に対してできることはとても少ない。
桜はいつか全部散る。見るだけでは足らず,それを惜しむかのように,お酒を飲む,誰かと過ごす,桜餅を食べる,写真を撮る,などなど。
 
いくら名残り惜しんでも,時間は止まらない。人間もいつか果てる。
確実に終わりゆくこの人生で,散りゆく桜に対してできる程度の楽しみ方しか,私は知らないのではないか。
桜を楽しむ手段が乏しいことはつまり,人生を楽しむ術を多く持たないということだ。
 
我々が桜の下でしていることは,自分が何を幸せだと感じているかを表している。お酒を飲む,写真を撮る,茶会をする,どれも結構だ。
それが,いつか必ず果てるこの人生に対して,自分ができることなのだろう。
 
「桜自体を楽しむ」方法を考えて,上に挙げたような間接的な手段ばかり浮かぶのは当然のことかもしれない。例えば人生自体がデフォルトで楽しかったら,「楽しもうとする必要もない」のだ。

楽しいのかよく分からないものを楽しもうと働きかけるとき,お酒を飲んだりデートしたりという具体的な行動を起こすことになるのだろう。
その方法を多く考えつく人がより幸せだと言えるかもしれないし,写真を撮る方が楽しい人もいれば,桜味のお菓子を食べる方が楽しい人もいる,というだけなのかもしれない。
 
桜自体を楽しむ方法は,塩漬けにして食べたりするぐらいしか今は浮かんでいない。腹が減っては食べて,買っては捨てて,生活とは小さく,できることは少なく思える。人生がデフォルトで楽しいのかもよく分からない。
 
でも,どうやら桜はデフォルトで綺麗だし,それを綺麗だと思う機能が,人間には実装されている。
それは一縷の救いだと思うのだ。
 
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ここまで別ページで書いておいてからブログの編集画面開いたら,今週のお題が「お花見」だった。

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私の楽しみ方です。