それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

必要なのは「親友枠」という関係性だと思う。

 
本当の願いは,一人でも多くの親友や相談相手(メンター)を作ることだった。
親友や相談相手というのは,「縁を切られる,こんな自分だと嫌われる」みたいなことを考えずに付き合える人のことだと思っている。つまり従来型の恋人のように「別れる/別れない」「関係を断つ/絶たない」といった,不毛な駆け引きで相手を掌握しなくていい関係性のことだ。

別れると言い出す側,言われた側,そんなしょうもない力関係が発生し,マウントを取ろうとするだけの争いは多々ある。主導権を握ろうと働きかけなきゃいけない時点で,なんで一緒にいるのか分からない。イニシアチブの取り合いが必要な人間関係など,疲れるだけだ。
 
 
今まで私がしていた人付き合いは,押入れに荷物を突っ込んで綺麗になった気でいる掃除みたいなもので,視界に入ったものをただ処理しているだけだった。
でも人間関係という庭は,草取りだけでは綺麗にならない。
出逢って花を植えたら終了なのではなく,世話が必要だ。枯れたら抜き取るという作業を繰り返しているだけでは,綺麗な庭にはならない。
 
私は今までの人生で,雑草抜きしかしてこなかった。
 
枯れるそばから引き抜いて外に追い出し,更地のようになっている庭を見ていて,ようやく気づいた。
いつの間にか,目の前には何もない。
 

 

親友とまでいかなくても,病気や給料のような突っ込んだ話をできる相手が,「いたのにいなかった(話さなかった)」ことはよくある。実際に話してみるまで,「話せる相手がいたこと」も分からなかったからだ。
話す相手がいてようやく,大きな悩みがあったのに独りでいたことに気づいた。
誰も頼らずに独りでいたら,誰を「親友」と呼べるかも分からないままなのだろう。 
 
数少ない「親友」と呼べる人達の中に,一緒にビジネスをしてうまくいくフレンズもいれば,将来一緒に住んだら楽しいフレンズもいるのかもしれない。お互い日本で暮らしているヘテロセクシャルなら,結婚という関係性で呼ばれることもあり得るかも,ぐらいの気持ちでいる。
 
つまり「親友枠」の中から,他の関係性でも運用できる人を探すということだ。
 
最初から恋人枠や配偶者枠に当てはまる人を探して見つかる人とは「別れる/別れない」で判断し合う関係になる。そんな相手を求めてはいない。
 
単なる賑やかしや「関係性」が欲しいのではなく,「親友」が欲しいのだと分かっていたら,目の前の庭は荒れないと思う。
雑多な花や木々にモサモサ覆われていたい訳ではない。石を置いて,更地の砂に模様をつけて,花が少ないなら少ないなりに,枯山水のような庭になってほしい。
 
本当に欲しい関係性の軸さえ分かっていれば,これからどれだけたくさんの人に出逢っても,間違った方向にはいかないはず。
 
 
「雑草しか抜いてこない人生だった」と急な独白をする私に,「俺はまだ生えてるから。もう少し育ててみてください」と言った人がいた。(その人は自らを雑草じゃなく「木」に例えていて,なんか勝手にグレードアップしていた。)
 
残りの人生の幸せは,こういう関係を増やせるかどうかにかかっている。
 
 

「かっこいいと思えないから,離れて歩きます。」

  

友人が急にかけてきた眼鏡がどうも私の美的感覚にそぐわず,「その眼鏡,かけててもいいですけど離れて歩きますね」と伝えた。すぐに眼鏡を外してくれたが,その日友人と別れた後,その眼鏡がなくなってしまったらしい。

友人は「もう出てこないと思う…」と,あのダサ眼鏡を嘆いている。確かに私が外させたからかもしれないが,やりきれなさの矛先はなぜか私に向き,「矢島さんが駄目って言ったものはこの世から消える」「魔女なの?!」と言われた。(いいえ茶人です)

この世から消えたとすれば,友人のダサ眼鏡と,かつての交際相手ぐらいだ。正確に言うと消えたのかどうかも知らないが,私の知覚できる範囲,すなわち私の世界からは消えた。

 


私は魔女ではないが,意識したものが(良いものも悪いものも)現実になるスピードが最近早まっている。具体的には書かないが,まさかこれがそう働くかと思うようなものによって,自ら完全消滅してくれたものもある。ダサいと思った眼鏡ぐらい,今なら消してしまいそうだ。

浮世離れしたことを話しているつもりはなく,全て現実で起こったことだから,私の実感としては地に足がついているのだ。 こういうスピリチュアルな話が無理じゃない人の前では,つい悪い冗談を言ってしまいたくなる。

 

 

「ほら,昔『夢かなえる』ゆうてベストセラーになったガネーシャって象,ようあんみつ食うとるやろ?*1 ワシも毎日和菓子食うてて,キャラかぶってんねん。

せやから,言ってへんかったけどワシ,ほんまは神様やねん。」

 

夢をかなえるゾウ文庫版

夢をかなえるゾウ文庫版

 

 

 

ダサいと思ったものをこの世から消す神,なんてあり得るだろうか。

私にはかっこいいと思えない眼鏡を気に入ったから,友人は買った。「私自身は」その眼鏡をかける必要がなく,褒める必要も,それをかっこいいと思う必要もない。この世から消す必要もないということだ。
いくら私の美的感覚にそぐわなかろうと,この世から消えることはない。しかし一瞬だけ目の前にあって,今目の前にないものが多々あるのは事実らしい。

消えた理由として,私が冒頭でダサ眼鏡に対して取った態度は,きっと私の合理性であり,行動の本質。


「あなたの生き方をかっこいいと思えないから,離れて歩きます。」

 

ただこの本質に従って,私本人や身の回りが,引っ切りなしに変化しているだけなのだ。

私から見たら耐えられないような生き方も,その生きている当人にとっては数々の合理的な選択の結果だ。そういう人から見た私の生き方は,その人の論理に全然叶っておらず,不合理の塊でしかないだろう。

 「他者の合理性」と「自己の不合理性」については上の記事で詳しく書きました。

 

 

つまり馬鹿にされたから馬鹿なのではなく,その馬鹿にしてきた人と同じ尺度も持っていなければ,同じ土俵にも立っていないだけ。

かっこよさもダサさも,分からない人がかっこ悪いのではなく,同じ美的感覚を共有していないだけなのだと思う。そして同じ尺度を共有できない限りは,今後もかっこいいと思えることはない。

 

私が離れて歩くことに決めた人達だって,私にはかっこいいと思えなかったその生き方を,かっこよくて合理的だと思いながら続けていくのだろう。きっとそれは,かっこよさと合理性の尺度が違うだけだったのだ。

私は私の基準と合理性に従って,この人生を続けていく。尺度の違う誰かの世界から(お互い)どんどん消えていくだろうけど,それは私の人生がかっこ悪いことを意味しない。

人生のかっこよさが理解されずとも,私は消えない。

 

自分の人生が実際にかっこいいかなんて分からない。けど他人がこういう生き方をしてたら,「あ〜先を越された,羨ましいな」と思えるような生き方を,今している途中だと思っている。
私は魔女でもガネーシャでもない,ただの茶人だけど,そう思えている。

 

 

そして例の“消してしまった”眼鏡は,少し経ってから無事に見つかり,友人の元に帰ってきた。

この世から消えてなど,いなかった。

 

 

*1:ガネーシャの好物はあんみつという設定でした。念のため

4年記念日。

 


茶道はもう少し前から始めてたけど,2014年1月10日に突然家で点て始めてから,気付いたら今日まで点ててた。一人で点ててきた期間が,人に茶道を習っていた期間を,とうに追い越した。(もちろん習っていた期間と一人で点ててきた時間は重なっている)

毎年この日は,お茶を点てると走馬灯のように思い出が駆け巡るけど,今年は完全に頭がごちゃごちゃになっただけだった。嫌になって,茶碗に鼻から顎まで突っ込んで,吸う息も吐く息も抹茶になった。肺や胸にお茶が溜まっていく。

緑の景色と反比例して頭が真っ白になる頃,「すべてが,ここに在る」と言葉が浮かんだ。「ここ」というのはお茶そのもののことではなく,しかしもっと局地的な気がした。

きっと「ここ」が何か分かるのはもう少し先だけど。今がどんな状態でも,「ここ」から5年目を始めたい。

 

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朝から茶碗の中でスホスホして出勤が遅れた分,申し訳なさと締め切りにより,いつもより2時間ほど残業した。定時を超えた後の弊社は,心に余裕があるときは結構好きだ。(それでもあんま残らないけど笑)

最寄駅の一つ手前で降りて,和風っぽいダイナーでエゾ鹿とお酒。一人でお茶との記念日を祝う。お茶との記念日なんだから,他に人などいてはいけない。

 

店にもう一組,人生を説くおばさまが二人。私の文章もあんな感じなのだろうか。彼女らの半分を生きてきた私に響かない人生観は,誰の役に立つかは分からない。そんな人生観も,あのおばさん自身を救うのだろう。

「幸福感は,自分一人の合議制」と,最近思っている。自分が納得できたら,それがすなわち幸せということ。

 

同じ店に2回と行くことのない私が,また違う時間に来ようかななどと思いつき,歩いて帰りながら,相場より高い家賃もそこそこに,やっぱりこの辺りにもう少し住んでいたいなと思った。

ダイナーにいたおばさんのように,幸せについて延々考える。悩むためではなく,幸せでいるための考え事が好きなのだ。散々考えて,結局ジャッジするのは頭に降って湧いたような感覚だったりする。

結局のところ,一人で,複数人で,家や外で,お茶といる時間が心地いいかどうかが,幸福のメルクマール。

 

このごろ頭から離れない,まとまらない考えごと。

酔いが回った頭で一言にまとめるなら,「お茶のあるこの人生好きだな」でしょう。