必要なのは「親友枠」という関係性だと思う。
出逢って花を植えたら終了なのではなく,
2018/02/09 カカオ亭のチョコレートおかき。チョコの染み込んでて,表面の粒塩が美味しい。
— aiko/あまんじるな (@amnjrn) 2018年2月10日
自分が不毛の地に立ってることすら,足止めされて立ち止まった時にしか分からないことがある。生きたい世界を生きるとは,無い物を探して見つけ出すことではなく,在るものに気づいて育てることだ。 pic.twitter.com/40nDfqGbP6
「かっこいいと思えないから,離れて歩きます。」
友人が急にかけてきた眼鏡がどうも私の美的感覚にそぐわず,「その眼鏡,かけててもいいですけど離れて歩きますね」と伝えた。すぐに眼鏡を外してくれたが,その日友人と別れた後,その眼鏡がなくなってしまったらしい。
友人は「もう出てこないと思う…」と,あのダサ眼鏡を嘆いている。確かに私が外させたからかもしれないが,やりきれなさの矛先はなぜか私に向き,「矢島さんが駄目って言ったものはこの世から消える」「魔女なの?!」と言われた。(いいえ茶人です)
この世から消えたとすれば,友人のダサ眼鏡と,かつての交際相手ぐらいだ。正確に言うと消えたのかどうかも知らないが,私の知覚できる範囲,すなわち私の世界からは消えた。
2018/01/17 銀座甘楽さんで会計を済ませてる時に,目が合った犬。再度会計した。職場で割ると,中にあんこが。
— 矢島 愛子 / Teaist 🍵 10/19(土)茶会 (@amnjrn) 2018年1月17日
去年から話のあった件でメールが色々と一気に届いた。どれだけ過去を捨て置いてきても,続くものは現在も残ってるし消えるものは消える,という流れだけが続いている。 pic.twitter.com/yeSFAaP0SN
私は魔女ではないが,意識したものが(良いものも悪いものも)現実になるスピードが最近早まっている。具体的には書かないが,まさかこれがそう働くかと思うようなものによって,自ら完全消滅してくれたものもある。ダサいと思った眼鏡ぐらい,今なら消してしまいそうだ。
浮世離れしたことを話しているつもりはなく,全て現実で起こったことだから,私の実感としては地に足がついているのだ。 こういうスピリチュアルな話が無理じゃない人の前では,つい悪い冗談を言ってしまいたくなる。
「ほら,昔『夢かなえる』ゆうてベストセラーになったガネーシャって象,ようあんみつ食うとるやろ?*1 ワシも毎日和菓子食うてて,キャラかぶってんねん。
せやから,言ってへんかったけどワシ,ほんまは神様やねん。」
ダサいと思ったものをこの世から消す神,なんてあり得るだろうか。
私にはかっこいいと思えない眼鏡を気に入ったから,友人は買った。「私自身は」その眼鏡をかける必要がなく,褒める必要も,それをかっこいいと思う必要もない。この世から消す必要もないということだ。
いくら私の美的感覚にそぐわなかろうと,この世から消えることはない。しかし一瞬だけ目の前にあって,今目の前にないものが多々あるのは事実らしい。
消えた理由として,私が冒頭でダサ眼鏡に対して取った態度は,きっと私の合理性であり,行動の本質。
「あなたの生き方をかっこいいと思えないから,離れて歩きます。」
ただこの本質に従って,私本人や身の回りが,引っ切りなしに変化しているだけなのだ。
私から見たら耐えられないような生き方も,その生きている当人にとっては数々の合理的な選択の結果だ。そういう人から見た私の生き方は,その人の論理に全然叶っておらず,不合理の塊でしかないだろう。
「他者の合理性」と「自己の不合理性」については上の記事で詳しく書きました。
つまり馬鹿にされたから馬鹿なのではなく,その馬鹿にしてきた人と同じ尺度も持っていなければ,同じ土俵にも立っていないだけ。
かっこよさもダサさも,分からない人がかっこ悪いのではなく,同じ美的感覚を共有していないだけなのだと思う。そして同じ尺度を共有できない限りは,今後もかっこいいと思えることはない。
私が離れて歩くことに決めた人達だって,私にはかっこいいと思えなかったその生き方を,かっこよくて合理的だと思いながら続けていくのだろう。きっとそれは,かっこよさと合理性の尺度が違うだけだったのだ。
私は私の基準と合理性に従って,この人生を続けていく。尺度の違う誰かの世界から(お互い)どんどん消えていくだろうけど,それは私の人生がかっこ悪いことを意味しない。
人生のかっこよさが理解されずとも,私は消えない。
自分の人生が実際にかっこいいかなんて分からない。けど他人がこういう生き方をしてたら,「あ〜先を越された,羨ましいな」と思えるような生き方を,今している途中だと思っている。
私は魔女でもガネーシャでもない,ただの茶人だけど,そう思えている。
そして例の“消してしまった”眼鏡は,少し経ってから無事に見つかり,友人の元に帰ってきた。
この世から消えてなど,いなかった。
4年記念日。
2018/01/10 丸4年目の朝。茶道の所作で飲む前に一瞬茶碗を押し頂く(少し上に掲げる)のとこの手の形が好きで,これが私が4年間毎日見てきた景色。
— aiko/あまんじるな (@amnjrn) 2018年1月10日
2014年1月10日に突然家で点て始めてから,気付いたら今日まで点ててた。https://t.co/9N662a6U1z
記念エントリ書きました。 pic.twitter.com/iQYLJsfSPk
茶道はもう少し前から始めてたけど,2014年1月10日に突然家で点て始めてから,気付いたら今日まで点ててた。一人で点ててきた期間が,人に茶道を習っていた期間を,とうに追い越した。(もちろん習っていた期間と一人で点ててきた時間は重なっている)
毎年この日は,お茶を点てると走馬灯のように思い出が駆け巡るけど,今年は完全に頭がごちゃごちゃになっただけだった。嫌になって,茶碗に鼻から顎まで突っ込んで,吸う息も吐く息も抹茶になった。肺や胸にお茶が溜まっていく。
緑の景色と反比例して頭が真っ白になる頃,「すべてが,ここに在る」と言葉が浮かんだ。「ここ」というのはお茶そのもののことではなく,しかしもっと局地的な気がした。
きっと「ここ」が何か分かるのはもう少し先だけど。今がどんな状態でも,「ここ」から5年目を始めたい。
朝から茶碗の中でスホスホして出勤が遅れた分,申し訳なさと締め切りにより,いつもより2時間ほど残業した。定時を超えた後の弊社は,心に余裕があるときは結構好きだ。(それでもあんま残らないけど笑)
最寄駅の一つ手前で降りて,和風っぽいダイナーでエゾ鹿とお酒。一人でお茶との記念日を祝う。お茶との記念日なんだから,他に人などいてはいけない。
店にもう一組,人生を説くおばさまが二人。私の文章もあんな感じなのだろうか。彼女らの半分を生きてきた私に響かない人生観は,誰の役に立つかは分からない。そんな人生観も,あのおばさん自身を救うのだろう。
「幸福感は,自分一人の合議制」と,最近思っている。自分が納得できたら,それがすなわち幸せということ。
同じ店に2回と行くことのない私が,また違う時間に来ようかななどと思いつき,歩いて帰りながら,相場より高い家賃もそこそこに,やっぱりこの辺りにもう少し住んでいたいなと思った。
ダイナーにいたおばさんのように,幸せについて延々考える。悩むためではなく,幸せでいるための考え事が好きなのだ。散々考えて,結局ジャッジするのは頭に降って湧いたような感覚だったりする。
結局のところ,一人で,複数人で,家や外で,お茶といる時間が心地いいかどうかが,幸福のメルクマール。
このごろ頭から離れない,まとまらない考えごと。
酔いが回った頭で一言にまとめるなら,「お茶のあるこの人生好きだな」でしょう。