それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「かっこいいと思えないから,離れて歩きます。」

  

友人が急にかけてきた眼鏡がどうも私の美的感覚にそぐわず,「その眼鏡,かけててもいいですけど離れて歩きますね」と伝えた。すぐに眼鏡を外してくれたが,その日友人と別れた後,その眼鏡がなくなってしまったらしい。

友人は「もう出てこないと思う…」と,あのダサ眼鏡を嘆いている。確かに私が外させたからかもしれないが,やりきれなさの矛先はなぜか私に向き,「あまんじるなさんが駄目って言ったものはこの世から消える」「魔女なの?!」と言われた。(いいえ茶人です)

この世から消えたとすれば,友人のダサ眼鏡と,かつての交際相手ぐらいだ。正確に言うと消えたのかどうかも知らないが,私の知覚できる範囲,すなわち私の世界からは消えた。

 


私は魔女ではないが,意識したものが(良いものも悪いものも)現実になるスピードが最近早まっている。具体的には書かないが,まさかこれがそう働くかと思うようなものによって,自ら完全消滅してくれたものもある。ダサいと思った眼鏡ぐらい,今なら消してしまいそうだ。

浮世離れしたことを話しているつもりはなく,全て現実で起こったことだから,私の実感としては地に足がついているのだ。 こういうスピリチュアルな話が無理じゃない人の前では,つい悪い冗談を言ってしまいたくなる。

 

 

「ほら,昔『夢かなえる』ゆうてベストセラーになったガネーシャって象,ようあんみつ食うとるやろ?*1 ワシも毎日和菓子食うてて,キャラかぶってんねん。

せやから,言ってへんかったけどワシ,ほんまは神様やねん。」

 

夢をかなえるゾウ文庫版

夢をかなえるゾウ文庫版

 

 

 

ダサいと思ったものをこの世から消す神,なんてあり得るだろうか。

私にはかっこいいと思えない眼鏡を気に入ったから,友人は買った。「私自身は」その眼鏡をかける必要がなく,褒める必要も,それをかっこいいと思う必要もない。この世から消す必要もないということだ。
いくら私の美的感覚にそぐわなかろうと,この世から消えることはない。しかし一瞬だけ目の前にあって,今目の前にないものが多々あるのは事実らしい。

消えた理由として,私が冒頭でダサ眼鏡に対して取った態度は,きっと私の合理性であり,行動の本質。


「あなたの生き方をかっこいいと思えないから,離れて歩きます。」

 

ただこの本質に従って,私本人や身の回りが,引っ切りなしに変化しているだけなのだ。

私から見たら耐えられないような生き方も,その生きている当人にとっては数々の合理的な選択の結果だ。そういう人から見た私の生き方は,その人の論理に全然叶っておらず,不合理の塊でしかないだろう。

 「他者の合理性」と「自己の不合理性」については上の記事で詳しく書きました。

 

例え話として適切ではないけど,人を馬鹿にしないと生きていけない人を見ていると,「馬鹿とは,他の人がどう頭がいいのか分からないこと」だと思う。難しい話をしていれば頭がいいと思う人もいる一方で,自分に知識があれば,その話が適切な文脈で登場しているかとかで頭の良さを測れる。(ちなみに私は,その難しい話が話し手の人生に活きていれば頭いいなと思う派。)
つまり馬鹿にされたから馬鹿なのではなく,その馬鹿にしてきた人と同じ尺度も持っていなければ,同じ土俵にも立っていないだけ。

かっこよさもダサさも,分からない人がかっこ悪いのではなく,同じ美的感覚を共有していないだけなのだと思う。そして同じ尺度を共有できない限りは,今後もかっこいいと思えることはない。

 

私が離れて歩くことに決めた人達だって,私にはかっこいいと思えなかったその生き方を,かっこよくて合理的だと思いながら続けていくのだろう。きっとそれは,かっこよさと合理性の尺度が違うだけだったのだ。

私は私の基準と合理性に従って,この人生を続けていく。尺度の違う誰かの世界から(お互い)どんどん消えていくだろうけど,それは私の人生がかっこ悪いことを意味しない。

人生のかっこよさが理解されずとも,私は消えない。

 

自分の人生が実際にかっこいいかなんて分からない。けど他人がこういう生き方をしてたら,「あ〜先を越された,羨ましいな」と思えるような生き方を,今している途中だと思っている。
私は魔女でもガネーシャでもない,ただの茶人だけど,そう思えている。

 

 

そして例の“消してしまった”眼鏡は,少し経ってから無事に見つかり,友人の元に帰ってきた。

この世から消えてなど,いなかった。

 

 

*1:ガネーシャの好物はあんみつという設定でした。念のため

4年記念日。

 


茶道はもう少し前から始めてたけど,2014年1月10日に突然家で点て始めてから,気付いたら今日まで点ててた。一人で点ててきた期間が,人に茶道を習っていた期間を,とうに追い越した。(もちろん習っていた期間と一人で点ててきた時間は重なっている)

毎年この日は,お茶を点てると走馬灯のように思い出が駆け巡るけど,今年は完全に頭がごちゃごちゃになっただけだった。嫌になって,茶碗に鼻から顎まで突っ込んで,吸う息も吐く息も抹茶になった。肺や胸にお茶が溜まっていく。

緑の景色と反比例して頭が真っ白になる頃,「すべてが,ここに在る」と言葉が浮かんだ。「ここ」というのはお茶そのもののことではなく,しかしもっと局地的な気がした。

きっと「ここ」が何か分かるのはもう少し先だけど。今がどんな状態でも,「ここ」から5年目を始めたい。

 

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朝から茶碗の中でスホスホして出勤が遅れた分,申し訳なさと締め切りにより,いつもより2時間ほど残業した。定時を超えた後の弊社は,心に余裕があるときは結構好きだ。(それでもあんま残らないけど笑)

最寄駅の一つ手前で降りて,和風っぽいダイナーでエゾ鹿とお酒。一人でお茶との記念日を祝う。お茶との記念日なんだから,他に人などいてはいけない。

 

店にもう一組,人生を説くおばさまが二人。私の文章もあんな感じなのだろうか。彼女らの半分を生きてきた私に響かない人生観は,誰の役に立つかは分からない。そんな人生観も,あのおばさん自身を救うのだろう。

「幸福感は,自分一人の合議制」と,最近思っている。自分が納得できたら,それがすなわち幸せということ。

 

同じ店に2回と行くことのない私が,また違う時間に来ようかななどと思いつき,歩いて帰りながら,相場より高い家賃もそこそこに,やっぱりこの辺りにもう少し住んでいたいなと思った。

ダイナーにいたおばさんのように,幸せについて延々考える。悩むためではなく,幸せでいるための考え事が好きなのだ。散々考えて,結局ジャッジするのは頭に降って湧いたような感覚だったりする。

結局のところ,一人で,複数人で,家や外で,お茶といる時間が心地いいかどうかが,幸福のメルクマール。

 

このごろ頭から離れない,まとまらない考えごと。

酔いが回った頭で一言にまとめるなら,「お茶のあるこの人生好きだな」でしょう。

 

 

一瞬だった人間関係に意味はあるのか。

 

恋愛に限らず,人間関係は「期待(時に損得ともいう)」で成り立っている。この人といたら幸せ(いい気分)になれるとか,この人といて今は辛いけどそのうち報われるとか,期待を含むときに,人は誰かと一緒にいることを望む。

一つの関係性に多くを盛り込んだ私は「期待」をし過ぎていたと,これまでに何回も思った。それは同時に,期待ハズレだったらすぐに放棄してもいいような関係性と同義だった。

 

今年は目の前でたくさんの奇跡を見たけれど,同時にたくさん失望した。それだけ周りの人たちに期待していたのだろう。

男も女も,長い付き合いの人もそうでない人も,同世代からかなり歳上まで,国籍問わず,みるみるドン引きし続けた一年だった。もう自分から連絡することのない人もいるだろう。

あれだけ仲良くなった人達と,もう今は言葉も交わしたくないと思ってしまう。殊に恋人はそれでも良かったが(いいのか),友人や年上の人達との関係も真っ暗になったのが今年だ。失礼を承知で例えるなら,数年ぶりに名前を聞く人に対して「あ,まだその辺りを生きてるのか」「あの人のピークはあの時だったんだな」と思うような感覚。

私は「まだその辺り」など生きていたくない人間なので,環境や思考を刷新するスピードもやけに早かった。そうやってポイポイ放棄してきたように見えて実は,毎回小さく寂しさを感じている。
過去に出逢った人の大半とは,未来を共有することはない。

 

仲が良かった人は,どんどん生活から消えていく。それは私が引越しを繰り返しているからではなく,同じ県に住んでいても同じこと。あまり寂しくないとしたら,今は今で新たな人間関係の中にいるからだ。

かろうじてお茶が私という人格を繋いでいるものの,1つの身体で色んな人生を生きてるような気がする。全てが高速で移り変わる中で,それぞれの人間関係の,期間の長さにはどれだけ意味があるだろう。

 

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例えばショックな出来事自体はだいたい一瞬で,実際に傷ついている期間は,その一瞬の出来事を後から反芻している間だといえる。
同様に,「いいときは続かない」のではなく,そもそも「いいことが起こったそのとき」も一瞬で,その一瞬の実感が残っていること,その実感をいつでも引っ張り出してこれることが「幸せである」という状態だ。
つまりその実感とともに生きることは可能だが,「いいことが起こったそのとき」という瞬間自体を引き延ばすことはできない。いいことを連続して起こすことはできると思うけれど,一つ一つはすぐ吹き飛んでしまうような儚いもの。

だから幸も不幸も,全ては一瞬なのだ。

 

あんなにいい時間を過ごせたあれやこれや,あんなに人を不快な気分にした有象無象,今はもういない。今や,私の人生になんの影響を及ぼすこともできない。

私が無情を感じるのは特定の個人に対してではなく,楽しく過ごした期間が一瞬だったことに対してだ。

 

一瞬でしかなかった出逢いや付き合いに意味はあったのか,終わってしまう関係に意味はあるのか,3月頃に考えていた。

しかし幸も不幸も一瞬なら,期間の長さを,幸せや正当性の根拠にはできないのだと思う。

例えば4年間毎日写真を撮り続けてきたとして,4年間という長さが1枚1枚の写真に意味を持たせているのではなく,意味を持った1枚1枚の写真が並んだ長さが4年分と言った方が正確だ。

だから,幸せだった一瞬も,私を不快にしたあの一瞬も全て混ざっているけれど,この今は今で、一瞬という短さのままで肯定できると思っている。

 

不快になったあの一瞬は要らなかったと,後からならいくらでも言える。こんなにも長い間苦しんだのにと,期間を根拠に怒ることもできる。過去の一瞬を引き延ばしているのは,いつだって自分だ。(散々引き延ばした後は懲りて,私は怒ることもしなくなる。)

しかし同時に,煮ても焼いても食えない人間が圧倒的多数の中で,一瞬でも笑い合えた相手がいたのも事実だ。それが一瞬だったことが悲しいくらい,楽しかった瞬間はあったのだ。どうやら。

どうひっくり返ってもうまくいかない人が大多数の中で,何らかの関係性で運用できそうな人に巡り合っただけで,本当は充分だった。

それが現在まで続いてるかどうかは,また別の問題。

 

 

私が今こんな話をしているのは,自分で引き延ばしていた負の一瞬も,幸せだった一瞬も,同じように等しいと思えたから。
あの不幸なときも一瞬だったのだと思えたことで,初めて人を許せる気がしたからだ。

 

 

過去に辛い期間があったとしても,もう後悔しなくていい。 後から振り返れば,一瞬だったかのように全ては過ぎてしまうのだから。

そう思うと,一瞬先には不幸になるかもしれないからと,今不安がらなくていい。

どんな人間といた過去も,どんなあなたといる今も,実感として楽しんでいられるのは,一瞬だけだ。

 

 



付記しなければならないのは,同じ人たちと様々な一瞬を過ごすことはもちろん可能だし,関係の連続性(一緒に辿ってきた道のりが今に繋がっていること)だって私を幸せにするということ。

そんな稀有な関係を「期待」する代わりに,一緒に長い時間を生きてこれた,そして今後も嫌いにならないだろうなと思える,数少ない人々をありがたがっていたい。