それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

一瞬だった人間関係に意味はあるのか。

 

恋愛に限らず,人間関係は「期待(時に損得ともいう)」で成り立っている。この人といたら幸せ(いい気分)になれるとか,この人といて今は辛いけどそのうち報われるとか,期待を含むときに,人は誰かと一緒にいることを望む。

一つの関係性に多くを盛り込んだ私は「期待」をし過ぎていたと,これまでに何回も思った。それは同時に,期待ハズレだったらすぐに放棄してもいいような関係性と同義だった。

 

今年は目の前でたくさんの奇跡を見たけれど,同時にたくさん失望した。それだけ周りの人たちに期待していたのだろう。

男も女も,長い付き合いの人もそうでない人も,同世代からかなり歳上まで,国籍問わず,みるみるドン引きし続けた一年だった。もう自分から連絡することのない人もいるだろう。

あれだけ仲良くなった人達と,もう今は言葉も交わしたくないと思ってしまう。殊に恋人はそれでも良かったが(いいのか),友人や年上の人達との関係も真っ暗になったのが今年だ。失礼を承知で例えるなら,数年ぶりに名前を聞く人に対して「あ,まだその辺りを生きてるのか」「あの人のピークはあの時だったんだな」と思うような感覚。

私は「まだその辺り」など生きていたくない人間なので,環境や思考を刷新するスピードもやけに早かった。そうやってポイポイ放棄してきたように見えて実は,毎回小さく寂しさを感じている。
過去に出逢った人の大半とは,未来を共有することはない。

 

仲が良かった人は,どんどん生活から消えていく。それは私が引越しを繰り返しているからではなく,同じ県に住んでいても同じこと。あまり寂しくないとしたら,今は今で新たな人間関係の中にいるからだ。

かろうじてお茶が私という人格を繋いでいるものの,1つの身体で色んな人生を生きてるような気がする。全てが高速で移り変わる中で,それぞれの人間関係の,期間の長さにはどれだけ意味があるだろう。

 

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例えばショックな出来事自体はだいたい一瞬で,実際に傷ついている期間は,その一瞬の出来事を後から反芻している間だといえる。
同様に,「いいときは続かない」のではなく,そもそも「いいことが起こったそのとき」も一瞬で,その一瞬の実感が残っていること,その実感をいつでも引っ張り出してこれることが「幸せである」という状態だ。
つまりその実感とともに生きることは可能だが,「いいことが起こったそのとき」という瞬間自体を引き延ばすことはできない。いいことを連続して起こすことはできると思うけれど,一つ一つはすぐ吹き飛んでしまうような儚いもの。

だから幸も不幸も,全ては一瞬なのだ。

 

あんなにいい時間を過ごせたあれやこれや,あんなに人を不快な気分にした有象無象,今はもういない。今や,私の人生になんの影響を及ぼすこともできない。

私が無情を感じるのは特定の個人に対してではなく,楽しく過ごした期間が一瞬だったことに対してだ。

 

一瞬でしかなかった出逢いや付き合いに意味はあったのか,終わってしまう関係に意味はあるのか,3月頃に考えていた。

しかし幸も不幸も一瞬なら,期間の長さを,幸せや正当性の根拠にはできないのだと思う。

例えば4年間毎日写真を撮り続けてきたとして,4年間という長さが1枚1枚の写真に意味を持たせているのではなく,意味を持った1枚1枚の写真が並んだ長さが4年分と言った方が正確だ。

だから,幸せだった一瞬も,私を不快にしたあの一瞬も全て混ざっているけれど,この今は今で、一瞬という短さのままで肯定できると思っている。

 

不快になったあの一瞬は要らなかったと,後からならいくらでも言える。こんなにも長い間苦しんだのにと,期間を根拠に怒ることもできる。過去の一瞬を引き延ばしているのは,いつだって自分だ。(散々引き延ばした後は懲りて,私は怒ることもしなくなる。)

しかし同時に,煮ても焼いても食えない人間が圧倒的多数の中で,一瞬でも笑い合えた相手がいたのも事実だ。それが一瞬だったことが悲しいくらい,楽しかった瞬間はあったのだ。どうやら。

どうひっくり返ってもうまくいかない人が大多数の中で,何らかの関係性で運用できそうな人に巡り合っただけで,本当は充分だった。

それが現在まで続いてるかどうかは,また別の問題。

 

 

私が今こんな話をしているのは,自分で引き延ばしていた負の一瞬も,幸せだった一瞬も,同じように等しいと思えたから。
あの不幸なときも一瞬だったのだと思えたことで,初めて人を許せる気がしたからだ。

 

 

過去に辛い期間があったとしても,もう後悔しなくていい。 後から振り返れば,一瞬だったかのように全ては過ぎてしまうのだから。

そう思うと,一瞬先には不幸になるかもしれないからと,今不安がらなくていい。

どんな人間といた過去も,どんなあなたといる今も,実感として楽しんでいられるのは,一瞬だけだ。

 

 



付記しなければならないのは,同じ人たちと様々な一瞬を過ごすことはもちろん可能だし,関係の連続性(一緒に辿ってきた道のりが今に繋がっていること)だって私を幸せにするということ。

そんな稀有な関係を「期待」する代わりに,一緒に長い時間を生きてこれた,そして今後も嫌いにならないだろうなと思える,数少ない人々をありがたがっていたい。



疑うのは,信じたいから。


ヒカリエから駅の向こう側に向かおうと,ビッカメ前の交差点を渡っている途中,なぜか分からないけど振り返ったら,一度だけ見たことのある後ろ姿があった。
その人がお茶の紙袋を持っているのを見つつ,信号を渡り切らずに引き返す。この間1秒。腕を掴むとお互い一瞬の間があり,私が名乗るよりも先にこちらの手を掴まれたので,今度は私が驚く番だった。


彼は一緒に仕事を進めている人たちと歩いていて,私のフルネームを伝えるとその方々も驚いていた。彼が新しい仕事相手の候補として私の名前を出した時に,彼と私のキャラが被るからと,その経営側の方々から反対があったらしい。
そこに待ち合わせてもないのに私本人が現れ,キャラも相殺し合わなさそうだから,この2人でいけるのではないかという話に。

このタイミングのいい青年は,前回の記事に出てきた,すごいタイミングで初めましてとメッセージを送ってきた茶人だ。彼か私,もしくは私たちの両方が奇跡体質(奇跡を起こしやすい体質)なのかもしれない。



翌日,その日本茶品評会の結果発表かつ試飲会があって,会場に入るや否や1年ぶりに見た顔がいた。2日連続,渋谷で茶人の腕を掴んでいた。
私を含めみんな歳が近い茶人だけど,私たちの相違点だなと思ったのは,「頭で考えるタイプの人」かどうかということだ。

例えば上述の「仕事」の話も,突っ込もうと思えばいくらでも胡散臭く,数時間話しただけの私をそのプロジェクトに誘った相手だけでなく,「全然大丈夫ですよ」と返事した私も頭がおかしいかもしれない。
「頭で考えないタイプの人」も,感覚的に胡散臭さを感知するとは思うけど。怪しさの理由を探してやめようと思う人は「頭で考えるタイプ」ということになる。

でも,何回も話してきた人なら大丈夫かといえばそうでもない。人はある程度なら取り繕うこともできるからだ。信用していた人が信用に足らなかったことに,後から気付くことだってある。
ある人が信用できるかなんて,すぐ分からなければ逆に,その後何年関わっても不明なままだと思う。うまくいくと考えたことでもうまくいかないように,頭で長い時間考えたところで,分からないものはあるのだ。

この人は大丈夫だと思える根拠は,時間が連れてくるものではない。

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今年ずっと思っていたのは,「疑うのは信じたいから」だということ。

信じたくない相手なら,疑うまでもなく,今この場で信じなければいい。つまり疑っている間とは,信じるための根拠を探している時間だ。

信じるという結論に持っていく意思がなければ,疑ったところで何のゴールにも辿り着かないし,疑ってた時間が無駄になった気分になる。ああもう信じたくないなと思えば,私は疑うことも話し合うことも終える。そのどちらも,最終的なゴールは信じることだと思うから。

信じられるか信じられないかではなく,どの人を,どの道を信じていたいか,なのだと思う。

 

だから今後も,あのとき渋谷の交差点で引き返していなければ,と思うことに意味はないのだろう。
あそこで腕を掴むまでの1秒間に,逡巡する余地はなかった。

 

私が黒歴史と呼んでいるものは,確かに全て「やらなくてもよかった」こと。そしてそこから年月が経つと,「やらなければよかった」とも思わなくなる。

今は今で,やりたいことをしているからだ。

そしてそれが「やりたいこと」ではなくなったとき,容赦無く「やらなくてもよかった」と思うだろう。けどそれは,後悔を含んでなどいない。何かをやりたくなくなったときには,新たなやりたいことを見つけてるだろうから。


これは「頭で考えないタイプの人」の考え方だと思う。
この先何かが起こったときは,渋谷でのあの1秒を後悔するより,その時はその時で生きていくしかないだけ。
そして「その時はその時で生きていくしかないだけ」なのは,「頭で考えるタイプの人」も同じだと思っている。

 

 

 

現実は,いつも予想を超えてくる。

他人が私の人生を決めてるかのように生きてきた。

 

周囲の大人に反対されて行きたい学部に行かなかったり,院で周りが外国人ばっかだったから英語まみれの生活になったり,お茶してる人と付き合えば「お茶生活も延長だな」とか思ったり。

でも,誰かのせいでこの人生を生きているかのような言い方をするのはおかしい。


そんなとき,インスタの海外のフォロワーに「英訳つけてくれてありがとう」とか「文章読むの楽しみにしてます」って言われると本当に,自分以外の誰かがこのお茶生活を続けさせているのだと感じる。

 

毎日のSNSの投稿も,たまにダイレクトに感謝されることがある。
お茶碗を貸してくださってる作家さんの茶碗をインスタに載せていると,作家さんが写真をリポストして,それがどうやらおバズりなさった。作家さんからフォロワーが一日で一気に増えたと連絡があり,今日もリポストなさっていた。

感謝も評価もされなくてもお茶を続けるだろうと思う私は,単に3年前の自分一人で点て続けていた頃を思い出す。


*
学部での反省もあり,大学院はお茶の研究のためだけに選んだ結果,英語ばかりの生活になった。1個の選択の後には外的に見える要因が生じる。でも細かく見ていけば,全てが自分の意思を含む。問題は,それを自分が選んだと腹を括れるか括れないか。

 

よく分からない学問領域2つで身につけた知識と英語と,先生もおらずほぼ独学のお茶と写真。変に心配しなくても,自分が選んだもの同士,伏線は絡みまくっているのだろう。繋げようと必要以上に力んだりしなくても。


だから,このままならない人生は,自分が選んだもの。同時に,自分以外の誰かのおかげで,望ましい生き方ができることだってある。

そういう意味で,人生はだいたい,私の期待も予想も超えてくるのだ。