それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

生きたい世界だけを眼差す。-The sweet life in Japan

 

人生は,私を最悪な気分のままで放っておかない。

 

金曜の夜中に塞がった気分は,3連休を毎日特別な方々と過ごしたおかげで,問題は据え置きのままに塗り替えられた。

火曜には,いい写真が撮れそうな朝日の中で一通のメールを見た。フォロワーのイタリア人女性が,私がインスタに載せてるアドレスに送ってくれたのだ。

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めちゃ流暢な英語だったので,以下で拙い日本語訳をして申し訳ない

 

 

私は金曜に気分の塞がった文章を更新し,おそらく月曜にも不穏な発言をしたのだろう。近頃SNSがとてもレスポンシブで,最適な人からすぐにコメントが来る。

私が修論の締切前に追い詰められて毎日のお茶を中断したのも,そのイタリア人女性はご存知のようだ。以下のように言っていた。

「あなたの人生を穏やかに生き続けてください。たとえあなたの更新が減っても,休んだとしても,私も,そしてきっと多くの人たちも,あなたをフォローし続けるでしょう。」

また私が毎日のお茶を辞めそうな気配が出ていたのだろうか。私にはもう,こんなメールがすぐに届けられる世界を作り上げることも,その全てを投げ出すことも,一瞬ではできない。

 

茶の本を出版したいとインスタ上で話したことはないはずだが,彼女は私の出版物に言及した。「本出たら買うね」は国籍問わず軽く言われるけど,そのイタリアの女性は「あなたがいつか書いて出版すると決めたもの全て買うでしょう」と言っている。「出版できたら」という言い方ではなく,全て私の決断次第のような言い方だった。

そして彼女は「Devid Lebovitzが書いたMy sweet life in Parisの一節のような何かを,あなたが書くのが確かに目に浮かびます」と言った。訳あって2週間パリで過ごしたけどパリ贔屓でもなんでもない私は,その本のことは知らない。しかしその本にどんな一節があるのだろうと気になって,すぐに注文した。私はどんな一節を書くのだろう。そんな答えを,誰かの出版物に求めた。

 

The Sweet Life in Paris: Delicious Adventures in the World's Most Glorious - and Perplexing - City

The Sweet Life in Paris: Delicious Adventures in the World's Most Glorious - and Perplexing - City

 

 

My sweet life in Parisは,男性パティシエがパリでの経験を綴ったブログの書籍化だと把握している。アメリカ人の視点で描かれたパリを読んでみると,皮肉に皮肉を重ねた描写の一文一文が笑いを誘い,筆者の賢さがそこにある。そしてエピソードごとに挿し込まれるレシピが,この本をただの日記に留めない。

この本の一節に似てると言われたのは嬉しいぞ*1。冗談を言い倒すのは,ブログ上というよりもリアルで喋ってる時の自分に近い。そしてインスタの英文を読んでくれてるフォロワーにそれが通じているのなら,なお嬉しい。

 

そうして心は,不愉快のどん底からThe sweet life in Parisの著者へと引っ張られていく。今の私の心を前に前に引っ張っているのは,明らかに,3連休の前後に話した人々や,イタリアからのメールだ。

 

 

ここ1ヵ月で思うのは,私を幸せにする能力の無いものに目を向けるな,ということ。

「魂のレベルが違う人」は皆,私を不快にする天才だ。

 

しかし逆も然りで,魂のレベルや種類や形がより近い人達は確実に存在する。私の足を,思考を,向かわせたい方向がある。人生を停留させるものよりも,もっと向き合っていたいものがある。*2

 

イタリアからのメールのように,周囲の特別な人達のように,世界や自分の点てたお茶が運んでくるものはいつも思いがけない。退屈などしていられない自分の生活を,the sweet lifeなんて呼んでみる。たとえままならない人生でも,ちょっと愛おしくなる。

日々のエピソードに挿し込まれたレシピが特別光るように,お茶を挿し込みながら生きる毎日は,自分にとってはsweetだ。

 

他人はどうあれ,自分だけは自分の人生を特別に扱っていい。食べたいものを食べる手も,会いたい人に会いに行く足も,私にしか動かせないのだから。

 

 

 

*1:2通目のメールで「He has his own style, but I can see some potential analogies with your work.」と言ってくださっていた。

*2:そうやって,不愉快な出来事にも喧嘩にも向き合う時間を取らないから,不快な気分をそのままに踏みつけて生きていくのかもしれない。そこは私の幼さで,この部分はいい加減解決しないといけない気がする。

後悔を越えるということ。

 

理解できないものがいくつかある。未経験のものを理解できないなんて子供じみてると思うのだが,昔の恋人への未練が理解できない。私は,過去の恋人を好意的に話すことがない。嫌いなところを羅列できるほど嫌いになってから別れているからだろう。もちろん,全員の全てが嫌いなわけじゃないのだが,もう関わりのない人を,現在関わりのある人の前で評価しても,仕方がないように思う。

そのため,私のサイコパスっぷりを理解している恋人は,元カノの話をしない。彼の中で元カノは,傷ついた思い出として残っているようで,「君といる間は気分がいいから,昔のことを思い出す必要がない」と言って,詳しく話さない。私も,聞きたいようで,聞きたくなかった。もし私が元カノのことを尋ねたら,話している間,そして話し終わった後もしばらく,その人のことを考えるかなと思うと尋ねたくないのだ。

 

そんな私が元恋人を引きずる人たちの話を聞くなど,この世で乗り越えなければならない業なのではないかと思った。しかし私の心の中でもあからさまに機能停止している部分であり,この最も理解し難い話を理解しなければ,成仏できないような気がした。

 

私が元恋人に負の感情しか湧かないのは,カスみたいな人が1人いたからだと思っていた。そいつの話を振れば,私の中の嫌な感情全て,最も攻撃的な面を引っ張り出すことができる。

しかし,ある人(告白された後も少しの間仲良くしていた)が「あまんじるなちゃん,頭もいいしユーモアもあるし,見た目に甘んじてないし(ギャグではない),これで人に優しくできれば完璧だね」と言っていたことを思い出した。これを言われたのはカスの人に出逢う前。カスの人の影響などではなく,ずっと前から私は優しくなどなかった。*1

 

次の可能性として,過去の人の話をされるのが好きではないのは,私には思い出したい過去などないからかもしれない。思い出すとしても,数週間前とかの楽しかったことだけにしている。後悔はわーっと喋るなり搔き消すなりして忘れたい。より正確に言えば,新たな後悔で古い後悔を上書きしているだけなのだが,それでも,昔の後悔にもう留まっていたくはないのだ。

 

ただし,本当に後ろ向きで,過去に取り残されている人であれば,もう今(この世に)は生きていないのではないかと思う。

 

発想の暗い高校生だった私は,当時から「人が生きているのは,いつまでも希望を捨てきれないからだ」と思っていた。私が多少サイコパスでも実体験は語れるのだが,死なない理由は,「このままで終わりたくない」という気持ちと一体だった。この死に損なったような気持ちは,過去の後悔を上書きするかのような「新たな後悔」を生み続ける。生きることは,何かが生起することを受け入れることであり,その何かは望ましいものばかりではないからだ。

それでも,後悔すること(=ああすれば良かった/しなければ良かったと思うこと)は,幸せのなり方を自ら一つに規定することだと思う。

ある方法で幸せになれないのなら,別の方法を探す。それも無理なら,自分には想像もつかない方法があるのだろう。私はだいたい3つ目の,想像もつかなかった方法で幸せでいる。
人は実際に起こったことは悔やめるけど,どのように幸せになるかなんて,実際に起こるまで分からないのだ。

 

生きていることはそれだけで,「このままで終わらない可能性」を捨てきれないことと同義だと思う。

 

過去について愚痴や弱音を吐くことで,誰かがまだまだ生きていけるのなら,私や他の誰かがそれを聴いたらいいのだろう。私も散々(ごく一部の聴いてくれる人に)聴いてもらってきたのだから。

誰かが過去を見つつも現在に足が着いているのなら,私は同じ地面の上にいたらいい。私は勝手に先に進むだろうけど。一緒に歩ける距離にいたら嬉しいけど。

古い後悔から逃げるように生きているにすぎない私は,過去に目を瞑っているだけなのだ。そういう過去を見せつけてくる目の前の人を,勝手に疎ましく思っていた。

過去を整理することは現在でしかできなくて,そうやって過去に向き合う間は,現在を生きている途中なのかなと思う。少なくとも新しく誰かに出逢ったということは,茶道を始めたとかそういう,過去とは違う何かしらの行動を起こしたということだ。
私に会うこともなかったような人達はきっと,まだ過去にいるのかもしれないけれど。私の目の前にいる,「このままで終わらない可能性」を可能性で終わらせなかった人を,もう少し評価できたらいいのだろう。

 

総合すると,元恋人を引きずる最高に理解不能な人たちの長所を挙げろと言われれば,「死んでいないところ」ということになる。「生きているから好きです」という暴論でもあるだろう。

 

サイコパスが改心したとか,そんなことはない。

ただ私は,今も生きている人たちに対して,文句を言い過ぎていたなと,思ったのだ。

 

 

 


↑変換間違いしてますが青柳正家です。すみません。

*1:その時は特になんとも感じなかった辺り,既にサイコパスだった気がする。今思い返すと,もしかしてあの人の最大限の嫌味だったのではないか,などと思う。

「金にならない」と言わせない。

 


3月下旬から5月半ばまで,点てたお茶の写真をSNSに(毎日)アップするのをやめていた。これは,お茶を辞めることと実は全く同義ではない。更新を辞めるタイミングはずっと考えていたけど,決心がつくのは突然のこと。

実はその前から,お茶碗を貸すので使ってくださいって言ってくれてた作家さんがいた。お茶の更新が減ったらもう連絡してこないかな〜と思ってたら,きちんと連絡をくださった。

インスタ上の人に自分の作品を配るなんて,茶碗界のダニエル・ウェリントン…!と思ったし,ご本人もそれを意識してたけど。本業の合間の土日に頑張って,1ヶ月に1個作れるか作れないかのものを,人に無償で貸し出せるのはやはりすごい。しかも本人は身銭を切ってひたすら広報活動とか貸出とかしてるわけで,何かしら利益が発生しても,全て師匠に渡していた。

 

冒頭の記事の中で,一銭も発生させない私のお茶の無意味さを滔々と語ったけど,それは0円だから無意味なんじゃない。1円でも発生した時点で,千円や一万円の仕事と比べて価値が低いだのなんだのって話になるだけだと分かってる。そんな議論に巻き込まれたら,自分のお茶が災難だ。

これで私か相手(作家さん)に利益がある…って話だったら,こんなに共鳴しなかった。そもそもこんな学生(当時)に貸し出しても購入に繋がらないんだから,その時点で欲のない人なのかなと思ったけど。無償であることの理解を共有していたというか,損得の話にならないのが心地よかった。

損得を抜きにすれば,感覚の近い人は勝手に出逢うものだと思った。そして感覚の近い人なんだから,頑張らなくても好印象でいられるっていう当たり前のことに気づく。おそらく私だけがそう思うのではなく,きっとお互いに。

 

毎日お茶を点ててる私しか見ていなかった人もいれば,私がお茶を辞めたと解釈する人だっていた。でも私がどんな状態であろうと,その状態のままで会える人はいる。

だから,自分の生き方が今変わっても,今後変わらなくても,この生き方でいいって思える世界は,絶対にどこかにある。自分が「この生き方でいい」と思えている限り。

 

 

そんなお茶碗を,5月ごろに割ってしまった。私が買い取れる値段でもなく,ひたすら謝るしかない自分に対し,割れた茶碗を修理して送り返してくれた。頭が上がらないのである。

 

そのお茶碗の写真を私のインスタで見て,パリ在住の茶道の先生が茶碗を欲しいと仰った。もともと今月パリに行くことは決まっていたので,茶碗を見せに行こうということになる。作家さんに許可を取ると,新たに最新作も貸してくださり,茶碗の入った木箱2つと共にパリへ到着した。過去に割ってしまって前科のある私に追加で貸し出すなど,もはや暴挙だ。

お茶碗をお披露目したそのフランス人のお茶の先生は,即断即決で最新作を購入してくださった。急いで作家さんにご報告するとなぜか感謝され,「また夢に近づきました」と仰っていた。

私は機内持ち込みの手荷物で茶碗を運んだだけだけど,「金にならない」と言われ続けた私のお茶が,初めてわかりやすく(誰かの)お金になった瞬間だと思う。*1

何かが売れてお金が発生して,という稼ぎ方しかないように思っていた。けれど私がとても払えないような値段の物を無償で貸してくださってるだけで,無からお金が生まれてるようなものだ。「金にならない」という言葉が,全く的を射ていないほどに。

 

茶道教室も辞めたし茶人の研究も一段落ついたなと,私がお茶から離れるタイミングに差し掛かる度に,誰かにこうして引き戻されているうちは,お茶と一緒にいる気がする。少なくとも「金にならない」と,的外れなことを言ってる人のせいで毎日のお茶を辞めることはないだろう。

お金があってもなくても,こういう人生を送るだろうなという人生を,今送ってるのだ。と思うことにしたい。

 

 

*1:私はマージンなどをもらっている訳ではないので,そういう直接的な意味ではなく。