それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」

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暗闇の世界を,視覚障害者の方にアテンドしてもらって体験するアトラクションが,今年8月に幕を閉じる。それを受けて,ヨウさんが改めて上の記事をポストしていて,その時に「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を知った。その数日後,たにしさん(id:Ta-nishi)さんがそのチケットを取ったらしく,お誘いを受ける。今一番チケットが取りにくい時なのに,私なんかが行っていいのか?いや,平日にフラッと行けるのは私ぐらいだったんだろうな,行きます!と返事をした数日後。

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この記事が炎上した。暗闇で痴漢される展示があったとのこと。もしこの記事が炎上した後に誘われてたら,疑ってるとかじゃなくてもめっちゃOKしづらかった。痴漢を所与のものとして,受け入れてると思われたらたまらない。

だけど「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」は,一緒に暗闇を歩くメンバーは最初に顔合わせするし,6人だけなので,変なことする人がいたとしてもすぐ分かる。チケット買う時に名前も言うみたいで,変な人がふらっと参加しない仕組みはできている。

ただ,どれだけ経っても目が慣れないほどの暗闇なのに,腕とかじゃなくて手のひらを掴まれたときに「なんで分かったの?!」とはまず思う。例えば,その日初めて会った人は触ってこないので,目が見えないけど触れるかどうか選べる=結構自由意志が効くものだなとは感じた。もっと直接的に言うと,触れる人を選べているということ。例えば2人ペアになるときに,暗闇でも最初から知り合い同士で固まってたのって面白くて。

 

夫婦らしきカップルが,誕生日に一番近い日に参加したかったんですって言ってて,それを知ってたガイドさんが誕生日のカードを用意してた。誕生日の記念に来るイベントなんだと考えると,ブラックなんとか展と違ってほんわかした雰囲気。

10日ぐらい前に誕生日だった私の分も,後から用意してくださった。ありがとうございます。

 

暗闇の途中にカフェがあって,ビールとワイン頼みませんか?ってたにしさんに言われて,私がワインを頼んだ。けど店員さんは,それが赤か白かは教えてくれない。普段ワインはサングリアしか飲まない私が「赤ですね」と当たり前のように言うと,いやこれ白でしょって言われ,私のバカ舌がバレる。
自分の名誉のために言っておくと,利き抹茶はできます。

抹茶の緑と緑は見分けつくけど,ワインの赤と白が分からない。

有名なブリティッシュジョークで,「これは牛肉か豚肉か」って尋ねる客に,店員が「食べて分かりませんか?」と返事して,「食べても分からなかったから訊いてるんだ」って言うバカ舌の客に,「分からないならどっちでもいいじゃないですか」って店員が答えるやつがある。これは,牛肉を注文したのに豚肉が来たっていうクレームとは全く違う。
飲食する行為で,味がそれだけアテにならなかったら,ただ赤いから赤ワインだなって思って飲んでるに過ぎない。日本食とかフォトジェニックなスイーツとかは目で楽しむって言うけど,味の半分以上を目に頼り過ぎていた。

その後に場所を移して赤ワインを飲んで,やっぱさっきのは白だったねってなった。飲めるから黙ってたけど,私が人生で唯一戻したことのあるお酒がワインで笑。たにしさんがよりによってワインのボトルをオーダーするのが,内心めちゃ面白かった。(ここで書くなよ)

 

ダイアログ・イン・ザ・ダーク」は,(知らない人との)対話を楽しむコンセプト。たにしさんとの距離感ならそのくらいかなと思ったけど,よく考えたら私は4年ぐらい前からブログを拝見していた。たにしさんもこのブログも全部読んでくれたみたいで,その辺の知り合いよりよっぽど私のこと知ってるっていう。

一緒のグループになる人によって雰囲気も変わるアトラクション,知り合いと行くなら,一緒に行く人がとても重要だと思う。この組み合わせの2人で行けて,より貴重な体験になったと思っている。

 

たにしさんと駅で別れて,一人になったときに白杖を持ってる人がホームにいた。さっきの今で,このタイミングで会うなんて。けどきっと,視覚障害者の方にはもっと出逢っていて,いま「見えた」のだろう。気づいて,知って,初めて「見た」ことになる。

今までどれだけ明るい場所にいても「見えなかった」人々を見た。

 

 


バカ舌茶人は開き直って,今日も味覚音痴を邁進する。

 

 

誰を助けることもできないけれど。

 

深刻な悩みであればあるほど,人に話せないし解決してくれる人なんて少ない。
私が誰を助けることもできないのと同様に,誰も私を助けることはできない。
そんなことをずっと思ってきた。

 

先々週ふと気づいたのは,誰も直接的に私を助けることはできないけれど,悩みや苦境から脱したときに,周りに人がいる(いた)ことに気づくだけなんだな,ということ。そのときに,思い出したように感謝してみたりする。

誰かに影響を及ぼされるというより,誰かに対して自分がどうリアクションを取るか次第。

感情って独り相撲だな。

だから気分次第で,あんなにありがたかった誰かのありがたみが薄れたり,妙に嬉しがったりもする。今すぐ誰かの力になれなくても,ふと思い出されたときに役に立ってるようなこともあるのかもしれない。

だからこそ,自分が去った後に何かを残すかのように生きなきゃいけないんだなと思った。

 

他人が何をしてくれるだろうかと考えることに意味はない。私が他人にできるようなことぐらいしか,他人も私にできないだろうなと思った。

私が茶を点てるぐらいしかできなければ,周りの人も一服のお茶と同程度のことをしてくれるだろう。もっとも,私は人にあんまり点ててこなかったけれど。

一人だろうと毎日お茶点ててる人なんて一人パリピ状態で,二つ以上の意味でおめでたいだけ。そんな自分が残すものについて考えた。

 

羊羹買ったから食べよう,と同居人に声をかける。彼女と行った和菓子教室で作った羊羹に似てたから,アレンジの参考になるかなと思ったのだ。彼女は帰国後に和菓子を再現するつもりらしく,予想通り熱心に研究しながら食べてくれた。発表前日の忙しいときに誕生日プレゼントもくれた。

例えば誕生日だからといって,誰かが茶を点ててくれるのを待ってていいだろうか。誕生日は,自分が茶を点てなくていい理由にはならない。

まずは自分が点てること。自分が働きかけた分だけ世界は動くし,自分がやる気出さなかった程度にしか世界は動かない。

同居人は帰国後,ラオス仏教週間(みんながお寺に行く祝日?)のときに和菓子を売るつもりらしい。

自分が茶を点て続けることの緩やかな影響と,自分にできることを再び考えた。

 

 

 

誕生日プレゼント,ちゃんとオチがある。

 

 

起こったことを,消そうとするな。

 

毎日点てるお茶と茶人の研究でお茶漬けになり,留学生しかいない同期の中で英語漬けだった院生生活はもうすぐ終わる。

本当はずっと,「これは本当はライフワークではない」「得意でもない分野でずっとやっていくなんて信じられない」と思っていた。院を卒業すれば両方から解放されるはずだった。しかし実際は,お茶から離れられていないし,出逢った人々に比例して英語の比重は増すばかりだった。

きっと自分がそれを望んでいるからだ。

 

苦手なことって2種類あって,いつまでも苦手で構わないものと,苦手でいたくないものがある。好きなことをすることは,後者に取り組むことを意味する場合もある。好きなこととは,苦労せずにできることばかりではなく,苦労を引き受けたとしてもしたいこと。

例えば,得意なことだけが好きかといえば,そうではない。「この人と過ごすと茶道の用語以外は全部英語だな…」とか思うよりも前にそれを受け入れているのなら,別に英語を忌み嫌ってなどいないのだと思う。それは得意だからなんかではなく,引き受けられる範囲の負担だし,負担とも思わないこともあるからだ。

そうしているうちに,英語でも言いたいことが言える割合が格段に増えて,今はあまりフラストレーションを感じない。変な話,これで今でもフラストレーションを抱えていたら,普通にお茶や英語から離れると思う。

本当に嫌なものからは結局離れる。不快じゃないものだけが手元に残る。だからか私は根無し草だけど。

そういう意味で,感情という自浄作用は信じている。おかげで最近は,正しいことしか起こっていないと最近は思えている。

 

一方で,手元にあるものに対して不安になる度に,「これは私のすべきことではない」と逃げようとしていた。この仕事やこの人に時間を割いてて大丈夫かなとか,どうしても思ってしまう。それがただの杞憂の場合もあれば,ごまかしきれない違和感の場合もある。後者であれば,その仕事や人からは離れた方がいい。その仕事に取り組んだことも,その人といたことも正しかったとしても,今「違和感を感じている自分」がいることも正しい,ということになるからだ。

 

道教室に全然いい思い出がないのに,お茶にこんなに時間使ってどうするんだ,とか。マトモな人みたいなことを理性が言う。実際には私が思っているのではなく,多分他人が言っていたことを反芻している。

お茶から離れれば,高校までの無趣味な自分に戻るだけ。でもそれは,また別の不安や恐怖に動かれてるだけなんじゃないのか,とか。余計なことも考える。

抱えている不安が,杞憂か違和感か,全く判断がつかなかった。起こったことは正しいとか言えてる今だって,きっと違和感だらけだ。

 

私のいう「正しさ」は「今この瞬間には正しい」ぐらいの意味だ。

例えばある外国人とは母語で話しているのと同じぐらい,むしろ日本人とよりも深く話せるなと思った場合,その瞬間はその人といることは間違ってない。仮に数年後とかに,日本人で同じぐらい議論できる人が見つかったとしたら,それも正しい。やっぱり母語の方が良かったんだねとか,英語使ってた期間は無駄だったねとか言ってくる鬱陶しい人はいないと思う。

 

ある物事が終わったとき,あの作業やあの人に時間を費やすんじゃなかったと,私はすぐ思ってしまう。でもそう思うときはだいたい,何か次の流れの中にいて,その新しい流れが正しいと思えているから,過去の流れが間違いに思えるのだ。逆に言えば,正しいことから次なる正しいことへと移り変わっているだけ。過去の判断が間違いに思えるのは,今は今の基準で正しいことを選択しているからだ。

だから,次に「正しいと思える」流れに接続されるまで,今いる流れはきっと正しいのだろう。

海外から来た茶人と一緒にいることを選べば,お茶漬けで英語漬けの期間が延長することも分かってる。先を案じたとして,代わりに今何をどうするというのか。今正しいと思えることを避けた先に,どんな種類の幸せが待ってるというのか。

 

今は今なりの正しさの中を生きていればいい。

少なくとも,私はお茶の人じゃないだなんて,もう思わない。