それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

誰を助けることもできないけれど。

 

深刻な悩みであればあるほど,人に話せないし解決してくれる人なんて少ない。
私が誰を助けることもできないのと同様に,誰も私を助けることはできない。
そんなことをずっと思ってきた。

 

先々週ふと気づいたのは,誰も直接的に私を助けることはできないけれど,悩みや苦境から脱したときに,周りに人がいる(いた)ことに気づくだけなんだな,ということ。そのときに,思い出したように感謝してみたりする。

誰かに影響を及ぼされるというより,誰かに対して自分がどうリアクションを取るか次第。

感情って独り相撲だな。

だから気分次第で,あんなにありがたかった誰かのありがたみが薄れたり,妙に嬉しがったりもする。今すぐ誰かの力になれなくても,ふと思い出されたときに役に立ってるようなこともあるのかもしれない。

だからこそ,自分が去った後に何かを残すかのように生きなきゃいけないんだなと思った。

 

他人が何をしてくれるだろうかと考えることに意味はない。私が他人にできるようなことぐらいしか,他人も私にできないだろうなと思った。

私が茶を点てるぐらいしかできなければ,周りの人も一服のお茶と同程度のことをしてくれるだろう。もっとも,私は人にあんまり点ててこなかったけれど。

一人だろうと毎日お茶点ててる人なんて一人パリピ状態で,二つ以上の意味でおめでたいだけ。そんな自分が残すものについて考えた。

 

羊羹買ったから食べよう,と同居人に声をかける。彼女と行った和菓子教室で作った羊羹に似てたから,アレンジの参考になるかなと思ったのだ。彼女は帰国後に和菓子を再現するつもりらしく,予想通り熱心に研究しながら食べてくれた。発表前日の忙しいときに誕生日プレゼントもくれた。

例えば誕生日だからといって,誰かが茶を点ててくれるのを待ってていいだろうか。誕生日は,自分が茶を点てなくていい理由にはならない。

まずは自分が点てること。自分が働きかけた分だけ世界は動くし,自分がやる気出さなかった程度にしか世界は動かない。

同居人は帰国後,ラオス仏教週間(みんながお寺に行く祝日?)のときに和菓子を売るつもりらしい。

自分が茶を点て続けることの緩やかな影響と,自分にできることを再び考えた。

 

 

 

誕生日プレゼント,ちゃんとオチがある。

 

 

起こったことを,消そうとするな。

 

毎日点てるお茶と茶人の研究でお茶漬けになり,留学生しかいない同期の中で英語漬けだった院生生活はもうすぐ終わる。

本当はずっと,「これは本当はライフワークではない」「得意でもない分野でずっとやっていくなんて信じられない」と思っていた。院を卒業すれば両方から解放されるはずだった。しかし実際は,お茶から離れられていないし,出逢った人々に比例して英語の比重は増すばかりだった。

きっと自分がそれを望んでいるからだ。

 

苦手なことって2種類あって,いつまでも苦手で構わないものと,苦手でいたくないものがある。好きなことをすることは,後者に取り組むことを意味する場合もある。好きなこととは,苦労せずにできることばかりではなく,苦労を引き受けたとしてもしたいこと。

例えば,得意なことだけが好きかといえば,そうではない。「この人と過ごすと茶道の用語以外は全部英語だな…」とか思うよりも前にそれを受け入れているのなら,別に英語を忌み嫌ってなどいないのだと思う。それは得意だからなんかではなく,引き受けられる範囲の負担だし,負担とも思わないこともあるからだ。

そうしているうちに,英語でも言いたいことが言える割合が格段に増えて,今はあまりフラストレーションを感じない。変な話,これで今でもフラストレーションを抱えていたら,普通にお茶や英語から離れると思う。

本当に嫌なものからは結局離れる。不快じゃないものだけが手元に残る。だからか私は根無し草だけど。

そういう意味で,感情という自浄作用は信じている。おかげで最近は,正しいことしか起こっていないと最近は思えている。

 

一方で,手元にあるものに対して不安になる度に,「これは私のすべきことではない」と逃げようとしていた。この仕事やこの人に時間を割いてて大丈夫かなとか,どうしても思ってしまう。それがただの杞憂の場合もあれば,ごまかしきれない違和感の場合もある。後者であれば,その仕事や人からは離れた方がいい。その仕事に取り組んだことも,その人といたことも正しかったとしても,今「違和感を感じている自分」がいることも正しい,ということになるからだ。

 

道教室に全然いい思い出がないのに,お茶にこんなに時間使ってどうするんだ,とか。マトモな人みたいなことを理性が言う。実際には私が思っているのではなく,多分他人が言っていたことを反芻している。

お茶から離れれば,高校までの無趣味な自分に戻るだけ。でもそれは,また別の不安や恐怖に動かれてるだけなんじゃないのか,とか。余計なことも考える。

抱えている不安が,杞憂か違和感か,全く判断がつかなかった。起こったことは正しいとか言えてる今だって,きっと違和感だらけだ。

 

私のいう「正しさ」は「今この瞬間には正しい」ぐらいの意味だ。

例えばある外国人とは母語で話しているのと同じぐらい,むしろ日本人とよりも深く話せるなと思った場合,その瞬間はその人といることは間違ってない。仮に数年後とかに,日本人で同じぐらい議論できる人が見つかったとしたら,それも正しい。やっぱり母語の方が良かったんだねとか,英語使ってた期間は無駄だったねとか言ってくる鬱陶しい人はいないと思う。

 

ある物事が終わったとき,あの作業やあの人に時間を費やすんじゃなかったと,私はすぐ思ってしまう。でもそう思うときはだいたい,何か次の流れの中にいて,その新しい流れが正しいと思えているから,過去の流れが間違いに思えるのだ。逆に言えば,正しいことから次なる正しいことへと移り変わっているだけ。過去の判断が間違いに思えるのは,今は今の基準で正しいことを選択しているからだ。

だから,次に「正しいと思える」流れに接続されるまで,今いる流れはきっと正しいのだろう。

海外から来た茶人と一緒にいることを選べば,お茶漬けで英語漬けの期間が延長することも分かってる。先を案じたとして,代わりに今何をどうするというのか。今正しいと思えることを避けた先に,どんな種類の幸せが待ってるというのか。

 

今は今なりの正しさの中を生きていればいい。

少なくとも,私はお茶の人じゃないだなんて,もう思わない。

 

 

 

 

地獄の釜の湯で茶を点てるような。

 

修論の締切1週間前,指導教官から返ってきた論文には,「簡潔に」と「意味不明」というコメントしか残されていなかった。指導教官はページ数のことばかり言っていて,右端のスクロールバーを見て記事を閉じる人のように,私の論文など読んでいなかった。加えて,「何も書き込みがないところは,意味が分からなくて読むのを諦めたところです」と言われた。空白のページから察するに,指導教官の直帰率は75パーセントぐらいだった。未公刊の修論なんて,存在しているだけのホームページのように,指導教官が読まなければページビューは0だ。

しかし指導教官は「(この読んでない部分を)私に読ませてください」と言った。

「もうこれ以上足せないってぐらい完成させたものを出せ」と言われて,自分でも10万字に絞って提出して読まれなかったその時点で締切1週間前。それから4万字は削り,意味不明と言われたところを1万字書き足し,合計して30ページは減った。あの一週間は,私の知ってる168時間ではなかった。

  

こうして生まれ変わった最終稿は,ようやく指導教官に全文読まれた。口頭試問では「ポエティックな表現が得意なようですが…」「逆説を展開すべきところで,いつまでも『しかし』が出てこない文章」「何かいいことを言っているけど意味が分からない」などと,ブログの感想みたいなことを言われた。意味不明にも関わらずいいことを言ってるって分かるなら,充分に文章の役割を果たしてる気がする。ともかく,自分が問題児だったことをすっかり忘れていた。

一般に大学院とは,秀やらAやらいい成績しか取ったことのないような,お勉強の得意な人が行く場所ということになっている。私の場合は,できない科目の成績はギリギリ単位がもらえる程度だった(特にフランス語とか。今考えると伏線でしかない)。その証拠に,高校・大学・留学と,落ちることができるものはだいたいコンプリートした。決して優等生の歩く道ではなかった。

 

 

指導教官が「いびつ」と表現したのは正しかった。優秀な大学院生が,いい成績を取って周りに褒められて出版に至るのなら,私は結末以外をすっ飛ばしている。でも,いい成績を取って褒められるだけよりは,出版できるだけの方を選ぶだろうな。

 

学術界で出版する機会は(修論の酷評に懲りて)これで最後になってしまいそうなので,ひとまずは。「人文科学と社会科学の中間(=どちらでもない)」とも言われたけど。

傷だらけの林檎でも,可食部分はある。

 

 

* 

口頭試問の直後,某フランス人と座禅をする約束をしていたのでお寺に向かった。彼が一週間ほどしか東京にいなかったために,そんなスケジュールになる。無心になどなれるはずもない頭の中は,指導教官の言葉で埋まっていた。座禅の時までガチャガチャしている。

あ,この「いびつさ」が私だ。

と気づいたのはそのときである。優等生みたいな道も,歩けるなら歩けばいいけれど。失敗を踏みならして歩いてきた自分の「いびつさ」を否定することは,ただ余計に人生を生きにくくするだけなのだ。

自分が「何」であるかを否定して,地獄を見ないように生きようとするのではなく,地獄の釜が再沸騰しようと,そのお湯でお茶を点て続けるような人間でいたい。そんなことを思う,修論の終わりだった。