原宿の母に会ってきた。
偶然前を通りかかったので,原宿の母に占ってもらった。
地元から来ていた友達が先に占ってもらい,私の番になるやいなや「結婚までにあと5から10人」と言われ吹き出した。
原宿の母いわく「あなた成長のスピードが早いから,すぐに男がついていけなくなっちゃうのよ」とのこと。そんな意識高い人に見えますか?未だに?
拾い物の画像。(すみません)
私「5人から10人出逢っても,結局どこにも落ち着かなかったら嫌ですね」
母「30歳過ぎてから,ちゃんと結婚できます」
私「その人には30過ぎてから出逢うんですか?」
母「はい」
私「じゃあそれまで,5から10人全部ハズレですか?」
母「はい。冬から来年の春にかけて一人現れそう」
私「でもそれハズレですよね?」
母「はい」
爆笑した。結婚するまでにまだ10人近く見ることのできる人生,聞いただけで楽しそうだと私の性格では思った。別にその全員と付き合うって言われた訳でもないし,良さげな人10人ぐらいは,これから全然出逢うだろうなと思った。
原宿の母は私の手を見た(手を出した)瞬間に「あんた男の3~4倍働くから,その人はあなたを頼るでしょうね」とも言っていた。今の人はダメだと言われれば,大半の女子は反発するだろう。今好きな人を信じたいだろうから。原宿の母は「今はアツアツだろうけど,そのうち物足りなくなるわ」と何度も言っていたけど,私の口から出たのは「じゃあ付き合っても無駄ですか?」だった。「無駄でしょうね」と言われた。
いい人だけど結婚に至らない人が,今後5年の間に10人ぐらい現れて,どんな球が飛んで来ても全部本気で振り切らなくていいし,大半を見逃したっていいとしたら。付き合ってみて別れたとしても,特にダメージなんてないだろう。
もし仮にそうなら,日本語が変だけど,30歳まであと5年が余生のように感じた。
そしてさらに恐ろしいのは,今ここに書いたこと,つまり,死ぬほど好きとかにはならず,別れても別に悲しくはない関係は,占いが示す「未来」ではなく「過去」5年間の自分だった。
つまり,占いの内容が当たる/当たらないの問題ではなく,もう既に起こってきたことだったのだ。
結婚がとりあえずのゴールなら,結婚しなかった関係に意味はなかったのか。
人を好きになることに人生の妙味があるのなら,嫌いになってしまった人には意味がないのか。
結婚に至るか/至らないかでジャッジして,終わった関係を時間の無駄だったと片付けるのか。過去の関係はそれでいいと思うけど(いいのか),今後もそれを繰り返すのか。
その人とうまくいくかどうかなんて,私自身が一番肌身で感じてしまうところだ。誰に何を言われなくても,終わるものは終わると,過去の経験からわかっている。今の自分にとって大事なのは「終わらせたいか/終わらせたくないか」なのだろう。
「終わってしまう/しまった関係に意味があるのか」という不毛感の中を生き続けるより,目の前のあらゆるものを「意味のあるものにしていく」努力が,今後の課題に思えた。
珍しく「お茶より大事にできるかもしれない」気がした人を受け流したら,私はまた,飛んで来た球を全力で打ち返さない人生になってしまうだろうな。逆に,球を全力で打ち返そう,むしろこっちから投げてやろうと思えるのなら,それだけでも私の人生の中で意味があるのだろう。いつの間にか好きならともかく,好きになろう,という努力は不毛に終わることが多いので,「全力で打ち返さなきゃ」と思うことに意味はないのだが。(どうしたらいいんだ)
*
一緒に占いをしてもらったその友達とは,私の初恋の頃からの付き合いだった。正確には初恋ではないけど,それまでの「好き」なんてカウントしたくないほどの出逢いが12歳であったから,私の初恋は12歳のときということになっている。私はたまに,合理化の鬼みたいになるのだ。
あれから,2回目3回目にカウントしたいような恋はできていただろうか。
2人で占いの内容を咀嚼しながら,「30歳になったら答え合わせしよう」と言いながら帰った。
「毎日の」お茶を,やめよう。
(うまく説明できないけど,中の人はこんな感じで毎日自宅や屋外でお茶を点てています)
私のお茶は,自宅で急に点て始めたあの瞬間から,
あれから丸3年と2ヶ月,意味のあることだから3年以上続いたん
数日前に人と話をしていて,
(お茶や茶道教室にまつわる悩みに関しては過去にも話している。お茶環境には全く恵まれなかった)
割と長い時間をお茶と過ごしてきて,なお「
そこまでして,
プライベートも論文も,学部3年の頃からお茶漬けだったから,今辞めても続けても
答えがYESでもNOでも,こんな自問自答をしてる時点でもう,続けていられない。
例えばだけど,もし一度「毎日お茶を点ててる」人としての評価を得てしまえば,
でも,うまくいかないことには理由がある。評価されていないことより何
お茶っていうのは,下心が出た瞬間にダサくなるのだ。
でも,何がしたいのかも分からず,
口腔外科手術の入院中も当日も,2週間の教育実習中も,
でも,辛い時も一緒にいたからという理由で,
一緒にいて幸せなものを,随時選択し続けていくことの方が,
一人で点て続けずに人に振る舞ったりすれば,
*
人間関係でいうと,人を多少好きになっては嫌いになってを過去に繰り返してきたけど,
距離が遠ければ,
茶道を始めた最初の頃から,
論文はあと2ヶ月ぐらい,
最後の最後まで,論文としてお茶と向き合いきってから,蟠りなく
2016/08/13 もう茶碗の写真なぞ無くとも,お茶をいただいてたことは伝わるかと。あと大徳寺は樹液がすごい(4枚目)。
— あまんじるな (@amnjrn) 2016年8月15日
私が楽しいと思って生きてることを示すのに,もう茶碗すら写す必要もないのだと思う。毎日のお茶も過渡期かな。 pic.twitter.com/bHOh9u74UZ
しばらく前から,私の理想は「無茶の茶」だった。お茶がなくても茶であるような人間になりたかった。茶道を習ってもないのに茶の本を書いたような,岡倉天心みたいに。この話は長いから割愛。
もし最後になってしまうならインスタも載せておきます。こっちはtwitterより始めたの遅い。
追記。
拙作の花瓶見てたら使いたくなって,近所で摘んできた。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年3月25日
3年以上欠かさなかったから執着してたけど,毎日お茶飲んでSNSにアップしてたら茶人だなんて,馬鹿げた定義だ。
今の自分に満足してないなら,お茶との付き合い方を変える時期。人間としても「毎日お茶してる人」以上の段階に移りたい。 pic.twitter.com/pXuNEVgTT9
2017/02/16
1日中単純な仕事をした後に映画を観に行った。誰でもできるような仕事だったのに社員さんたちが気を遣ってくれて,不満などない。私には恵比寿三越は鬼門で,今日1日分の給料の半分が和菓子に消えた。
訳あって法外な茶道教室も辞めたし,有給インターンとTAの仕事とスキマ時間のバイトをこなしてるのもあって,フィールドワークでの赤字を補填し,自由に遣えるお金が手元に残るようになった。毎日のお茶も辞めてしまえば,バイトもしなくていいぐらいかもしれない。
そして私は,今と今後,何のために働くのかを知るのだ。*1
ただ,明日もお茶が点てたい。
先のことが分からなくても,ひょっとしたら将来お茶から離れているかもしれなくても,私は数週間後のためにひな祭りのお菓子を買うだろう。それが私にとって「今日も生きてる」ということだった。
*
単館上映系の映画を見るのも好きなので,正確にはお茶だけでなく映画にもお金を使う。
映画館では映画とコラボしたお酒が売っていた。私が観たのはそっち(「たかが世界の終わり」)ではなく,数学が何よりも好きな少年の成長の物語。一応実話に基づいてるのかな。元のタイトルの「x+y」でいいじゃないか。
「少年を主人公にした映画あるある」を全て詰め込んだ,ベタベタの定石すぎる作品だけど。イギリスと中国っていうカップリングなのがちょっと面白い。主人公が本当に話しベタだったらあんなに中国語上手にならないから笑
オリンピックより大事なものが,ある。
数学以外に好きになれるものができて,家族を愛せるようになる。*2
そんな映画にびゃーびゃー泣く自分。
自分の最大の欠点はもう,わかっている。正確には,去年ぐらいにやっと分かったのを,今ごろ自覚している。
いつもこう過ごしてる訳ではないにしても,シナモンスティックがそのまま入った甘めのお酒で映画を見る。
去年は一人で過ごすのが下手になってたけど,一人で過ごす時間も,また少し得意になってきた気がした。精神的に独りのときは,一人が楽しくないのだと知った。いや,この過ごし方を鑑みると,もうしばらく一人で過ごすことになるだろうけど。
今日買ったものの中で唯一の生菓子が,いちごが埋まった大福で。
お会計のときもショーウインドウを眺めてたら,店員さんがいちごが大きい方に替えてくれた。
2017/02/16 店員さんがいちごが大きい方に替えてくれて嬉しい人生が,幸せなものでない訳がないのだ。https://t.co/o3HlayF4wr
自分でも呑気で平和だなと思うけど。そのうち言えなくなってしまうことなら余計に,残しておきたいと思うだろう。 pic.twitter.com/DfF7H1q7Z9
私の日常はこういうもので溢れている。
むしろこれは,私が生きている小さい世界を,さらに縮小したものなのだと思った。
今日自分がしたくてできる最大限のことをしなければ,縮図を拡大したときに,見たい世界がそこにある訳がないのだ。