それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「毎日の」お茶を,やめよう。

 

(うまく説明できないけど,中の人はこんな感じで毎日自宅や屋外でお茶を点てています)

 

私のお茶は,自宅で急に点て始めたあの瞬間から,ずっと意味などなかった。
あれから丸3年と2ヶ月,意味のあることだから3年以上続いたんじゃなくて,お茶を点てると毎日決断し続けていたら3年経ってた。

 

数日前に人と話をしていて,自分のお茶はmeaninglessだと口に出した瞬間,電車内のうるさい子供レベルで泣いてしまった。意味が無いのは分かっていたが,こんなに思い詰めてたのは自分でも知らなかった。次の日は頭が痛いままインターンの仕事をした。少なくとも貨幣価値社会では,私のお茶は有給インターン以下だ。価値のないお茶をしながら,お茶について論文を書く。そりゃ最高に贅沢な時間だろう。I don't like tea ceremony, I hate my past teacherと愚痴りながら,止めどなく咽び泣いた。

 

(お茶や茶道教室にまつわる悩みに関しては過去にも話している。お茶環境には全く恵まれなかった)

 

割と長い時間をお茶と過ごしてきて,なお「お茶なんて好きじゃない」と言っているのならば,やっぱりお茶は向いていない。唯一食べられなかったあんこも,できなかった着付けも克服した。しかし依然として,道教室の中でお茶をすることは好きになれない。いい先生を探そうという意欲も今は湧かない。だから家とか教室の外でお茶をしていた。

そこまでして,お茶にしがみつく意味は,今は考えつかない。​今はとりわけ調子が悪いからか,もう毎日お茶をする理由は思い浮かばない。​

お茶をしてる人類に関する論文執筆だけが,私を引き止めている。それはお茶の好き嫌いの問題ではなく,出逢ってきた研究対象者への責任だ。

 

プライベートも論文も,学部3年の頃からお茶漬けだったから,今辞めても続けてもサンクコスト的には最悪。でも,お茶の人だと思われ続けながら,残りの人生を生きることを,私は心から望んでいるのだろうか。​「お茶しかない」という文字列を,何の悲愴もなく眺められるだろうか。​

答えがYESでもNOでも,こんな自問自答をしてる時点でもう,続けていられない。

 

例えばだけど,もし​一度「毎日お茶を点ててる」人としての評価を得てしまえば,もうお茶を辞めづらいというか,お茶での評価にしがみついたり,少なくとも周囲にはお茶の人と認識され続けるんだろう。今はそんな心配しなくていいけど。

でも,うまくいかないことには理由がある。評価されていないことより何より,I don't like tea ceremonyは真理。心から好きになれないまま自分が勝手にやってるようなことで,何らかのゴールに到達するわけがない。

 

お茶っていうのは,下心が出た瞬間にダサくなるのだ。私がお茶からの何の収益も得ていないのは,ダサくなってまでお茶をする理由なんてないからだ。もし私がそんなモチベーションだったら,3年以上一人でお茶を点て続けてはいられない。

でも,何がしたいのかも分からず,自分のしていることに本人が納得できないのであれば,かける時間もお金も無駄だ。



口腔外科手術の入院中も当日も,2週間の教育実習中も,インフルエンザのときも鼻血を出しながらでも,お湯のない日も水で,海外の大学院に落ちた日も,ずっとお茶といた。

でも,辛い時も一緒にいたからという理由で,未来も一緒にいる理由はない。未来も辛くしていたいならともかく。例えば,あの人とは「何年付き合ったから」離れられない,と説明する人がいれば,他の理由は?って私はすぐに尋ねるだろう。

一緒にいて幸せなものを,随時選択し続けていくことの方が,よっぽど一筋縄でいかない。でも,思考停止せずに,選択を止めずに生きていくことが,自分の人生を尊く扱うことなのだ。丸3年と2ヶ月以上,点てるという選択を毎日してきた上で,私の価値観ではそう思う。

 

一人で点て続けずに人に振る舞ったりすれば,人の役に立ってるからとインスタントに「自分の」心が満たせる。自分がお茶をする理由を,他人に依拠したくない。「評価」は他人がすることだから,もし他人から茶人と評価されてる限りお茶をしているのなら,それも他人を理由にしてるだけ。(私の場合は一部の海外の人の評価は得てるけども…)

 

人間関係でいうと,人を多少好きになっては嫌いになってを過去に繰り返してきたけど,ようやくその理由が分かってきた。誰かを嫌いになれるほど,その人達に一瞬でも近づいていたからだ。

距離が遠ければ,ただ一方的に,愛でたい部分だけ愛でて終わりだった。あれほどまで極端に嫌いになるには,ある程度以上は好きにならなきゃいけなかったんだなと思った。

茶道を始めた最初の頃から,人間関係とかで苦痛を抱えてはいたけれど。私がお茶なんて好きじゃない」という言葉に達するまでに,やはりあれほど好きになる必要があったのだろう。

​最初から全部を嫌いだったのでもなく,​飽きたのでもなく,​好きでいることを​諦めたのでもない。
 
今の気持ちは説明できないけど,​「大切にする方法」が変わったのだろう。もう毎日のお茶に固執しなくていい。少なくとも,お茶を撮りたい日だけでいいし,決して安くはない和菓子や抹茶を頻繁に買っては,一日あたり70〜100枚の写真を撮って選別して,日英両方で更新する必要はどこにもない。「趣味」は苦痛なレベルになってはいけない。(でもこの3年で染み付いた習性が,すぐに抜けるとも考えにくい。)

 

論文はあと2ヶ月ぐらい,文章としての完成度を高めるために書く。よく歴史系の人に誤解されるけど,お茶自体ではなく人類について書いてる論文だ。学術的文章なんて,対象を嫌いな方が書きやすいと昔の指導教官も言っていた。

最後の最後まで,論文としてお茶と向き合いきってから,蟠りなく心から好きになれるものを見つけようと思う。その時にまだ心の中にお茶があるなら,その時にまた考えよう。​

 

しばらく前から,私の理想は「無茶の茶」だった。お茶がなくても茶であるような人間になりたかった。茶道を習ってもないのに茶の本を書いたような,岡倉天心みたいに。この話は長いから割愛。 

 

もし最後になってしまうならインスタも載せておきます。こっちはtwitterより始めたの遅い。

 

追記。 

 

 

2017/02/16

1日中単純な仕事をした後に映画を観に行った。誰でもできるような仕事だったのに社員さんたちが気を遣ってくれて,不満などない。私には恵比寿三越は鬼門で,今日1日分の給料の半分が和菓子に消えた。

 

訳あって法外な茶道教室も辞めたし,有給インターンとTAの仕事とスキマ時間のバイトをこなしてるのもあって,フィールドワークでの赤字を補填し,自由に遣えるお金が手元に残るようになった。毎日のお茶も辞めてしまえば,バイトもしなくていいぐらいかもしれない。

そして私は,今と今後,何のために働くのかを知るのだ。*1

 

 

ただ,明日もお茶が点てたい。

先のことが分からなくても,ひょっとしたら将来お茶から離れているかもしれなくても,私は数週間後のためにひな祭りのお菓子を買うだろう。それが私にとって「今日も生きてる」ということだった。

 

 

単館上映系の映画を見るのも好きなので,正確にはお茶だけでなく映画にもお金を使う。

映画館では映画とコラボしたお酒が売っていた。私が観たのはそっち(「たかが世界の終わり」)ではなく,数学が何よりも好きな少年の成長の物語。一応実話に基づいてるのかな。元のタイトルの「x+y」でいいじゃないか。


「少年を主人公にした映画あるある」を全て詰め込んだ,ベタベタの定石すぎる作品だけど。イギリスと中国っていうカップリングなのがちょっと面白い。主人公が本当に話しベタだったらあんなに中国語上手にならないから笑

 

オリンピックより大事なものが,ある。

数学以外に好きになれるものができて,家族を愛せるようになる。*2

 

そんな映画にびゃーびゃー泣く自分。
自分の最大の欠点はもう,わかっている。正確には,去年ぐらいにやっと分かったのを,今ごろ自覚している。

 

いつもこう過ごしてる訳ではないにしても,シナモンスティックがそのまま入った甘めのお酒で映画を見る。

去年は一人で過ごすのが下手になってたけど,一人で過ごす時間も,また少し得意になってきた気がした。精神的に独りのときは,一人が楽しくないのだと知った。いや,この過ごし方を鑑みると,もうしばらく一人で過ごすことになるだろうけど。

 

 

今日買ったものの中で唯一の生菓子が,いちごが埋まった大福で。

お会計のときもショーウインドウを眺めてたら,店員さんがいちごが大きい方に替えてくれた。

 

 

私の日常はこういうもので溢れている。

むしろこれは,私が生きている小さい世界を,さらに縮小したものなのだと思った。

今日自分がしたくてできる最大限のことをしなければ,縮図を拡大したときに,見たい世界がそこにある訳がないのだ。

 

*3

*1:働き始める前にこういう生温いことを言いたくないと同時に,院生のうちに,言えなくなる前に言っておきたい。

*2:自分より頭の悪いお母さんをバカにしてたけど,最後の説明を聞いて主人公が変わるという。

*3:どっちも家族をテーマにした映画だったけど,見たのが「たかが世界の終わり」だったらまた違う日記になってたんだろうか。

在り方:自分を表象するもの。


卒業以来会ってなかった高校の時の友達と会ったけど,全然お茶の話をしなかった。いつも口を開けばお茶の話をしてそうな私でも,そういうことができた。お茶の話を話してみれば,絶対「面白いね」って聴いてくれる子だったけど。これは相手の問題じゃない。

そして「お茶を点てるのが日課みたいになってて」って,すごくマトモな人みたいな受け答えをした。

お茶の話すると,全力がダダ漏れになるからだろうか。「あなたの血は抹茶色ですか?」って言われそうな狂い方もできるけど。いつも緑色の血液してるかっていうと,そうじゃない。

自分のしてることをうまく話せないとき(それでも話す必要があるとき),とりあえず毎日のお茶の写真を見せてみることもある。それでどうするのだろう。お茶点ててるとか,写真撮ってるとか言い換えたところで,ただ生きてるだけなんだよな。ここ3年くらいを振り返ったとき,そこにお茶があるっていうだけ。

こうして連日お茶写真を人に見える形で公開して,出逢ってきた人々の隣でお茶を点ててきたくせに。私がお茶まみれになってることを知る由もない昔の友達を前にして,今更何を言ってるんだろう。

 

と書いてみたけど,本当は喜ばしいことで。

お茶がなくても,私は私だったのだ。

 

 

6~7年ぶりに会って,その子の第一声が「声が変わってない!」だったし(もっと他にあるだろう),高校のときに「毎日ノート出してた(先生の添削指導受けてた)の今でも覚えてる」とか言われて,今も毎日お茶を提出(=投稿)してるからやってること一緒で。お茶を見せなくても,いや見せなかったからか,「何をするかより,どう在りたいかが大事なタイプ?」と言い当てられたりするのだ。

どんなにお茶に時間割いても,自分にもお茶じゃない要素がたくさんある。当然だけど。

緑の粉をお湯に溶かして飲んでるとか,茶碗の中で竹を動かしてるとか,そんな「何をやってるか」ばかりが,人間の中身でもないのだろう。どう在る人間なのかは,お茶をやってても辞めても変わらない。

 

 

茶碗一杯分,心が軽くなった。私はお茶と毎日付き合ってるだけじゃなくて,何よりも,何をしても,離れられない「自分」と一緒にいるのだと思った。

茶人でもなんでもないときの私は,お茶の話と同じぐらい生き方の話をしたり,インターンしたり普通に院生だったりして,そのどれもに,鬱陶しいほど「自分」が散らつくのだ。

自分を出す/出さない,自分のお茶を見せる/見せない,そんなことでもう,躊躇しない人で在りたい。