「毎日の」お茶を,やめよう。
(うまく説明できないけど,中の人はこんな感じで毎日自宅や屋外でお茶を点てています)
私のお茶は,自宅で急に点て始めたあの瞬間から,
あれから丸3年と2ヶ月,意味のあることだから3年以上続いたん
数日前に人と話をしていて,
(お茶や茶道教室にまつわる悩みに関しては過去にも話している。お茶環境には全く恵まれなかった)
割と長い時間をお茶と過ごしてきて,なお「
そこまでして,
プライベートも論文も,学部3年の頃からお茶漬けだったから,今辞めても続けても
答えがYESでもNOでも,こんな自問自答をしてる時点でもう,続けていられない。
例えばだけど,もし一度「毎日お茶を点ててる」人としての評価を得てしまえば,
でも,うまくいかないことには理由がある。評価されていないことより何
お茶っていうのは,下心が出た瞬間にダサくなるのだ。
でも,何がしたいのかも分からず,
口腔外科手術の入院中も当日も,2週間の教育実習中も,
でも,辛い時も一緒にいたからという理由で,
一緒にいて幸せなものを,随時選択し続けていくことの方が,
一人で点て続けずに人に振る舞ったりすれば,
*
人間関係でいうと,人を多少好きになっては嫌いになってを過去に繰り返してきたけど,
距離が遠ければ,
茶道を始めた最初の頃から,
論文はあと2ヶ月ぐらい,
最後の最後まで,論文としてお茶と向き合いきってから,蟠りなく
2016/08/13 もう茶碗の写真なぞ無くとも,お茶をいただいてたことは伝わるかと。あと大徳寺は樹液がすごい(4枚目)。
— あまんじるな (@amnjrn) 2016年8月15日
私が楽しいと思って生きてることを示すのに,もう茶碗すら写す必要もないのだと思う。毎日のお茶も過渡期かな。 pic.twitter.com/bHOh9u74UZ
しばらく前から,私の理想は「無茶の茶」だった。お茶がなくても茶であるような人間になりたかった。茶道を習ってもないのに茶の本を書いたような,岡倉天心みたいに。この話は長いから割愛。
もし最後になってしまうならインスタも載せておきます。こっちはtwitterより始めたの遅い。
追記。
拙作の花瓶見てたら使いたくなって,近所で摘んできた。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年3月25日
3年以上欠かさなかったから執着してたけど,毎日お茶飲んでSNSにアップしてたら茶人だなんて,馬鹿げた定義だ。
今の自分に満足してないなら,お茶との付き合い方を変える時期。人間としても「毎日お茶してる人」以上の段階に移りたい。 pic.twitter.com/pXuNEVgTT9
2017/02/16
1日中単純な仕事をした後に映画を観に行った。誰でもできるような仕事だったのに社員さんたちが気を遣ってくれて,不満などない。私には恵比寿三越は鬼門で,今日1日分の給料の半分が和菓子に消えた。
訳あって法外な茶道教室も辞めたし,有給インターンとTAの仕事とスキマ時間のバイトをこなしてるのもあって,フィールドワークでの赤字を補填し,自由に遣えるお金が手元に残るようになった。毎日のお茶も辞めてしまえば,バイトもしなくていいぐらいかもしれない。
そして私は,今と今後,何のために働くのかを知るのだ。*1
ただ,明日もお茶が点てたい。
先のことが分からなくても,ひょっとしたら将来お茶から離れているかもしれなくても,私は数週間後のためにひな祭りのお菓子を買うだろう。それが私にとって「今日も生きてる」ということだった。
*
単館上映系の映画を見るのも好きなので,正確にはお茶だけでなく映画にもお金を使う。
映画館では映画とコラボしたお酒が売っていた。私が観たのはそっち(「たかが世界の終わり」)ではなく,数学が何よりも好きな少年の成長の物語。一応実話に基づいてるのかな。元のタイトルの「x+y」でいいじゃないか。
「少年を主人公にした映画あるある」を全て詰め込んだ,ベタベタの定石すぎる作品だけど。イギリスと中国っていうカップリングなのがちょっと面白い。主人公が本当に話しベタだったらあんなに中国語上手にならないから笑
オリンピックより大事なものが,ある。
数学以外に好きになれるものができて,家族を愛せるようになる。*2
そんな映画にびゃーびゃー泣く自分。
自分の最大の欠点はもう,わかっている。正確には,去年ぐらいにやっと分かったのを,今ごろ自覚している。
いつもこう過ごしてる訳ではないにしても,シナモンスティックがそのまま入った甘めのお酒で映画を見る。
去年は一人で過ごすのが下手になってたけど,一人で過ごす時間も,また少し得意になってきた気がした。精神的に独りのときは,一人が楽しくないのだと知った。いや,この過ごし方を鑑みると,もうしばらく一人で過ごすことになるだろうけど。
今日買ったものの中で唯一の生菓子が,いちごが埋まった大福で。
お会計のときもショーウインドウを眺めてたら,店員さんがいちごが大きい方に替えてくれた。
2017/02/16 店員さんがいちごが大きい方に替えてくれて嬉しい人生が,幸せなものでない訳がないのだ。https://t.co/o3HlayF4wr
自分でも呑気で平和だなと思うけど。そのうち言えなくなってしまうことなら余計に,残しておきたいと思うだろう。 pic.twitter.com/DfF7H1q7Z9
私の日常はこういうもので溢れている。
むしろこれは,私が生きている小さい世界を,さらに縮小したものなのだと思った。
今日自分がしたくてできる最大限のことをしなければ,縮図を拡大したときに,見たい世界がそこにある訳がないのだ。
在り方:自分を表象するもの。
卒業以来会ってなかった高校の時の友達と会ったけど,全然お茶の話をしなかった。いつも口を開けばお茶の話をしてそうな私でも,そういうことができた。お茶の話を話してみれば,絶対「面白いね」って聴いてくれる子だったけど。これは相手の問題じゃない。
そして「お茶を点てるのが日課みたいになってて」って,すごくマトモな人みたいな受け答えをした。
お茶の話すると,全力がダダ漏れになるからだろうか。「あなたの血は抹茶色ですか?」って言われそうな狂い方もできるけど。いつも緑色の血液してるかっていうと,そうじゃない。
自分のしてることをうまく話せないとき(それでも話す必要があるとき),とりあえず毎日のお茶の写真を見せてみることもある。それでどうするのだろう。お茶点ててるとか,写真撮ってるとか言い換えたところで,ただ生きてるだけなんだよな。ここ3年くらいを振り返ったとき,そこにお茶があるっていうだけ。
こうして連日お茶写真を人に見える形で公開して,出逢ってきた人々の隣でお茶を点ててきたくせに。私がお茶まみれになってることを知る由もない昔の友達を前にして,今更何を言ってるんだろう。
と書いてみたけど,本当は喜ばしいことで。
お茶がなくても,私は私だったのだ。
6~7年ぶりに会って,その子の第一声が「声が変わってない!」だったし(もっと他にあるだろう),高校のときに「毎日ノート出してた(先生の添削指導受けてた)の今でも覚えてる」とか言われて,今も毎日お茶を提出(=投稿)してるからやってること一緒で。お茶を見せなくても,いや見せなかったからか,「何をするかより,どう在りたいかが大事なタイプ?」と言い当てられたりするのだ。
どんなにお茶に時間割いても,自分にもお茶じゃない要素がたくさんある。当然だけど。
緑の粉をお湯に溶かして飲んでるとか,茶碗の中で竹を動かしてるとか,そんな「何をやってるか」ばかりが,人間の中身でもないのだろう。どう在る人間なのかは,お茶をやってても辞めても変わらない。
2017/01/24 お手作り日本橋最中。食べる直前に自分で餡を挟んでサクサク。最中を被せた時に,少しはみ出る餡子もまたよい。
— aiko yajima|矢島 愛子 (@amnjrn) 2017年1月24日
お茶を点ててる私は,こう生きてる自分のほんの一部分。どんなにお茶を見せようとも,または見せなくても,私自身がどう在るかの方が,雄弁らしい。 pic.twitter.com/uA7jC2JSU3
茶碗一杯分,心が軽くなった。私はお茶と毎日付き合ってるだけじゃなくて,何よりも,何をしても,離れられない「自分」と一緒にいるのだと思った。
茶人でもなんでもないときの私は,お茶の話と同じぐらい生き方の話をしたり,インターンしたり普通に院生だったりして,そのどれもに,鬱陶しいほど「自分」が散らつくのだ。
自分を出す/出さない,自分のお茶を見せる/見せない,そんなことでもう,躊躇しない人で在りたい。