2017/02/16
1日中単純な仕事をした後に映画を観に行った。誰でもできるような仕事だったのに社員さんたちが気を遣ってくれて,不満などない。私には恵比寿三越は鬼門で,今日1日分の給料の半分が和菓子に消えた。
訳あって法外な茶道教室も辞めたし,有給インターンとTAの仕事とスキマ時間のバイトをこなしてるのもあって,フィールドワークでの赤字を補填し,自由に遣えるお金が手元に残るようになった。毎日のお茶も辞めてしまえば,バイトもしなくていいぐらいかもしれない。
そして私は,今と今後,何のために働くのかを知るのだ。*1
ただ,明日もお茶が点てたい。
先のことが分からなくても,ひょっとしたら将来お茶から離れているかもしれなくても,私は数週間後のためにひな祭りのお菓子を買うだろう。それが私にとって「今日も生きてる」ということだった。
*
単館上映系の映画を見るのも好きなので,正確にはお茶だけでなく映画にもお金を使う。
映画館では映画とコラボしたお酒が売っていた。私が観たのはそっち(「たかが世界の終わり」)ではなく,数学が何よりも好きな少年の成長の物語。一応実話に基づいてるのかな。元のタイトルの「x+y」でいいじゃないか。
「少年を主人公にした映画あるある」を全て詰め込んだ,ベタベタの定石すぎる作品だけど。イギリスと中国っていうカップリングなのがちょっと面白い。主人公が本当に話しベタだったらあんなに中国語上手にならないから笑
オリンピックより大事なものが,ある。
数学以外に好きになれるものができて,家族を愛せるようになる。*2
そんな映画にびゃーびゃー泣く自分。
自分の最大の欠点はもう,わかっている。正確には,去年ぐらいにやっと分かったのを,今ごろ自覚している。
いつもこう過ごしてる訳ではないにしても,シナモンスティックがそのまま入った甘めのお酒で映画を見る。
去年は一人で過ごすのが下手になってたけど,一人で過ごす時間も,また少し得意になってきた気がした。精神的に独りのときは,一人が楽しくないのだと知った。いや,この過ごし方を鑑みると,もうしばらく一人で過ごすことになるだろうけど。
今日買ったものの中で唯一の生菓子が,いちごが埋まった大福で。
お会計のときもショーウインドウを眺めてたら,店員さんがいちごが大きい方に替えてくれた。
2017/02/16 店員さんがいちごが大きい方に替えてくれて嬉しい人生が,幸せなものでない訳がないのだ。https://t.co/o3HlayF4wr
自分でも呑気で平和だなと思うけど。そのうち言えなくなってしまうことなら余計に,残しておきたいと思うだろう。 pic.twitter.com/DfF7H1q7Z9
私の日常はこういうもので溢れている。
むしろこれは,私が生きている小さい世界を,さらに縮小したものなのだと思った。
今日自分がしたくてできる最大限のことをしなければ,縮図を拡大したときに,見たい世界がそこにある訳がないのだ。
在り方:自分を表象するもの。
卒業以来会ってなかった高校の時の友達と会ったけど,全然お茶の話をしなかった。いつも口を開けばお茶の話をしてそうな私でも,そういうことができた。お茶の話を話してみれば,絶対「面白いね」って聴いてくれる子だったけど。これは相手の問題じゃない。
そして「お茶を点てるのが日課みたいになってて」って,すごくマトモな人みたいな受け答えをした。
お茶の話すると,全力がダダ漏れになるからだろうか。「あなたの血は抹茶色ですか?」って言われそうな狂い方もできるけど。いつも緑色の血液してるかっていうと,そうじゃない。
自分のしてることをうまく話せないとき(それでも話す必要があるとき),とりあえず毎日のお茶の写真を見せてみることもある。それでどうするのだろう。お茶点ててるとか,写真撮ってるとか言い換えたところで,ただ生きてるだけなんだよな。ここ3年くらいを振り返ったとき,そこにお茶があるっていうだけ。
こうして連日お茶写真を人に見える形で公開して,出逢ってきた人々の隣でお茶を点ててきたくせに。私がお茶まみれになってることを知る由もない昔の友達を前にして,今更何を言ってるんだろう。
と書いてみたけど,本当は喜ばしいことで。
お茶がなくても,私は私だったのだ。
6~7年ぶりに会って,その子の第一声が「声が変わってない!」だったし(もっと他にあるだろう),高校のときに「毎日ノート出してた(先生の添削指導受けてた)の今でも覚えてる」とか言われて,今も毎日お茶を提出(=投稿)してるからやってること一緒で。お茶を見せなくても,いや見せなかったからか,「何をするかより,どう在りたいかが大事なタイプ?」と言い当てられたりするのだ。
どんなにお茶に時間割いても,自分にもお茶じゃない要素がたくさんある。当然だけど。
緑の粉をお湯に溶かして飲んでるとか,茶碗の中で竹を動かしてるとか,そんな「何をやってるか」ばかりが,人間の中身でもないのだろう。どう在る人間なのかは,お茶をやってても辞めても変わらない。
2017/01/24 お手作り日本橋最中。食べる直前に自分で餡を挟んでサクサク。最中を被せた時に,少しはみ出る餡子もまたよい。
— aiko yajima|矢島 愛子 (@amnjrn) 2017年1月24日
お茶を点ててる私は,こう生きてる自分のほんの一部分。どんなにお茶を見せようとも,または見せなくても,私自身がどう在るかの方が,雄弁らしい。 pic.twitter.com/uA7jC2JSU3
茶碗一杯分,心が軽くなった。私はお茶と毎日付き合ってるだけじゃなくて,何よりも,何をしても,離れられない「自分」と一緒にいるのだと思った。
茶人でもなんでもないときの私は,お茶の話と同じぐらい生き方の話をしたり,インターンしたり普通に院生だったりして,そのどれもに,鬱陶しいほど「自分」が散らつくのだ。
自分を出す/出さない,自分のお茶を見せる/見せない,そんなことでもう,躊躇しない人で在りたい。
人類学的書き物のすゝめ。
質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)
- 作者: 岸政彦,石岡丈昇,丸山里美
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2016/12/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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インターン先の社長が買った本を,社員さんの隣で,社長の目の前で読みふけってしまった(勤務中)。すみません。自分で選んだ本じゃないので「社会学」って書いてあるけど,いい表現があって,そこからバっと一冊読んでしまった(勤務後に)。*1
研究ってとにかく批判的でいればいいのかというとそうではなく,大別して3つのコアアプローチ(箕浦 2009: 2-8)がある。
論理実証主義的アプローチは誰の目にも同じように見える客観的世界(「真理」とか)が存在すると信じてる人が,知見を一般化しようとする立場。反対に,唯一無二の客観的世界なんかなく,どんな観点に立つかで社会的現実は変化すると考えるのが,解釈的アプローチと批判的アプローチ。行動や状況に着目して「分かろう」とするのが前者で,悪しきものを「変えていこう」とするのが後者である。ディスりをメインとしてるのは,これら3つのアプローチのうち1つであるということだ。
本書で扱われている内容の一つが「他者の合理性」である。(調査者にとっては)不可解なことをしているように見える人も,本人には理由があって,いたって合理的な判断のもとに生きているということ。
冒頭の本の中にあった丸山の事例を拝借すると,女性ホームレスがいたとして,その人がホームレスになった背景には隠された権力構造があることを主張して,それを変えようとする批判的意識を持つことを(読者や研究対象者自身に)促すのが批判的アプローチ。一方で,その人がホームレス生活の辛さを饒舌に語るにも関わらず,野宿者生活をやめないのには理由があるのでは,と考えるのが解釈的アプローチである。野宿者生活なんて早く脱却せな!っていうのは,正論だとか以前に,(当事者以外の)ある立場に立っている人間の意見であるということだ。
自分が合理的だと思ってる判断も,誰かにとっては不合理かもしれない。これが「自己の不合理性」であり,調査者自身が無意識に抱いていたバイアスに気づく過程もまた,質的調査では必要なのである。
では「他者の合理性」に寄りそうのでもなく,かつ「自己の不合理性」に無自覚な文章はどうなるのか。
調査者もまた人間である以上,ある局地性を生きており,局地的理解をしているにすぎません。(中略) 最も問題があるのは,「他者の合理性」でも「自己の不合理性」でもなく,「他者の不合理性」を記述する調査です。これに依拠した書き物からは,ほとんど学ぶものがありません。たとえば,若者の貧困を調査する研究者が,調査をした結果「若者が困難な生活を送るのは,かれらが仲間内だけの『狭い世間』を生きているからである」と結論づけるような例です。貧困を生きる若者という「他者」は,不合理なことをしているから貧困に陥っているのだと解釈しているのです,「他者の不合理性」が強調されて,その裏側には「自己(=書き手)の合理性」が前提にされています。
(中略)この手の調査には「調査をしたからわかったこと」が書かれていません。なぜなら,調査をせずともわかっていることを,自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞっているからです。その結果,問いが深められた形跡のない書き物ができあがるのです。(岸 2016: 147)(強調は引用者)
本書は質的調査の本だけど,ネット上のオピニオン記事でも充分に当てはまる。何かが間違っていると主張することは,自分の(元から思ってた)考えが正しいと主張すること。外の出来事や他人の意見やそれっぽい調査やらを引き合いに出し,持論の正当性を訴えたところで,実は元々の持論以上の何物も生まれていないのだ。
実は私は解釈的アプローチで論文を書いている。仮想敵は私が一年通っていた茶道教室で,まぁ批判材料はいくらでもある。でも批判というより,まず事実は事実として書く。ただ,インタビューさせてもらっている主要なインフォーマント(情報提供者)の皆さんは,私ほど気楽なお立場ではないので,ただ単に(悪い方向に)超伝統的な茶道教室が潰れることを望んでもいない。
つまり,あんな悪徳教室なくなった方がみんな幸せだ!と思うのは私にとっての合理性で,そんな昔ながらの茶道を知りつつもうまく折り合っているのが,インフォーマントの皆さん。そこには彼らの合理性がある。同時に,これも「茶道」の世界の一端だと思う。この状況を批判的アプローチで変えていこうとするのは,飛躍しすぎであり紙幅も足りず,完全に私の力量と持ち駒も足りていない。
紙面での順番は前後するけど,その「他者の合理性」を知るのに必要なのが,研究対象者そのものではなく,「人びとが対峙する世界」を知ることだと理解した。
「人びとの対峙する世界」を知ることは,当該状況に置かれた人々の視点に基づいて物事を考え直す契機となるものです。ですが「人びと」を知る場合には,人々の視点ではなく,それを解析する分析者の視点から考えることになってしまいます。「人びとの対峙する世界」を知ることは,対象者を受動的な容器としてではなく,能動的な働きかけを行う主体として捉えることを可能にするのです。(同上: 130)
インフォーマントは当然能動的な主体で,調査者の合理性に沿って動いてなどいない,ということ。各インフォーマントの合理性を知るために,少しでも彼らと同じ世界に浸るべく,フィールドワークや参与観察なんて手法があるのだ。
本書の主張を私の言葉で言い換えるなら,「あなたの叩き台になるために生きている人間など,誰一人としていない」だろうか。
「人間」を学問するのが人類学だと思ってたけど,「人びと」を仔細に観察しても,調査者としての関心事ばかりが浮かび上がってきて,それは相手を「分かる」ことに繋がってはいないのだなと思う。もちろん相手と同じ方向を向こうとはするけど,私はその本人じゃないので,解釈しかできない。
間違い(に見えること)を指摘することも,嫌うことも,文句を言うことも容易だけど。普段してる「批判」とは,なんて小手先の動作なのだろう。私が見たものを描写したときに,そこに否定的な含みなど込めたところで,不愉快な引っかき傷のようなものだなと思う。私が今立ち向かってるものは,私が目の当たりにした,そして彼らが私に見せてくれた,この世界のほんの一部で。山ほど思うところはあるのに,描写はできても,何を“きちんと”批判できようか。
それでも。修士で人類学に出逢ってからの方が,人と逢うことも,文章を書くことも楽しい。持論をただ補強するために書くのではなく,人の数だけ彼らが対峙する世界を見て,ひたすら聴き,読み,書く時期があること。こんな立脚の仕方,普通に生きてたら習得しようとも思わなかったな。
参考文献は,冒頭の一冊と,こちら。途中で引用した丸山さんの事例は,冒頭の本の中に記述があります。
*1:質的調査とは,インタビューやフィールドワーク,自分もその空間に参加する参与観察等々,調査者自身が収集した「会話記録や観察記録,写真,音声,動画などのデータや,さらには新聞記事や行政資料,歴史的資料,映画やポピュラー音楽,広告など」(岸 2016: 9)に基づく社会調査のことです。