3年記念日。
まだ3年なのか,と思うと同時に
永遠に続くものなどないっていう
諸行無常の考え方は私の根底にあります。
人の心は変わり,生きている世界も変わります。
変わっていくものに心を痛めていると,
心がボロきれになりそうなので,やめています。
だからこそ。
永遠に一緒にいるだろうからあなたが大切なのではなく
今あなたと過ごしているということだけは確かだから
あなたが大切なのです。
期間の長さという過去が裏付けになっているのではなく,
永遠に続くという未来の担保があるから尊いのでもなく,
今この一瞬をあなたといるということが,
私をこんな気持ちにさせているのです。
だから私は,半年後には違うことを言ってるかもしれません。
一緒にいることをある日突然決めたように,
逆の事柄も急に起こるのかもしれません。
でも,過去の判断を全く後悔していないように
未来の自分がその時に選んだ答えが正解なのだと思います。
あなたといる選択をすることが偉いとかいうことはなく,
一緒にいることも,いないことも,
どちらでも正しいのだと思います。
いつの日か消えてしまうかもしれない気持ちだからこそ,
そしたらもう言えなくなってしまう言葉だからこそ,
ここに留め置きたいことはただ一つ。
楽しいときも,幸せなんかじゃないときも
あなたといられて幸せでした。
まだ一緒にいたいです。
2017/01/10 点てて飲み干した後「あ〜しあわせ!」とこぼれた,特別な想いのお茶。世の中を善悪や可否だけで語れないように,好きとか嫌いとかで括れない気持ちがあるのだ。https://t.co/5LA9P3R9fz
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年1月10日
記念エントリー書きました。 pic.twitter.com/Yo2bI2kSza
毎日お茶を点てて写真をアップし始めたのが2014年の1月10日。今日でようやく,茶道に出逢ってから今までの6年間のうちの,半分の期間を写真に収めてきたことになる。
思えば,なんの不満もなく「茶道」をしていたのは,最初の数回だけだと思う。そこからはお茶にまつわる人間関係,金銭問題,孤独や不毛感,理不尽や矛盾と闘う日々で,「人生かよ」と思った。誰よりも不満をこぼしながら,「茶道」と過ごしていた気がする。
だけど。お茶は私の全てではないのに,お茶と生きることは,ここ3年間の私を顕していた。「お茶道」が大嫌いになりそうなときも,私は自分の「茶」をして,好きな世界を創った。たとえ全部を好きじゃなくても,こんな気持ちになれるのだと知った。
私はただ点て続けて,写真を撮り続けてきただけなんだけど,お茶は私をここまで連れて来た。お茶は,私が今ここに立っている理由。立っていられる理由。そしてこれからは,お茶と一緒にどこへ行くかが問われている。
お茶がこんなにも私の頭と脚を動かすことだけは,確からしい事実。お茶に動かされて今に至った自分を,お茶がない頃の自分より好きになれたことも,事実だ。
花は盛りに。
遠くから赤色が見えて,あれって椿だったかなと思い近寄ると,それはサンザシだった。
今日の茶菓子は椿の上生菓子にしようと思っていて,生の椿を探しに,私は大学へ芝刈りに。そうでなくてもいつも,スティックタイプのハサミを持ち歩いているのはそのためだ。しかしハサミは必要がなかった。木の根元には,枝ごと折れたサンザシが落ちていた。
サンザシを拾い,椿はまあいいかと来た道とは別の道を歩くと,目に入ったのは白い椿である。茶花として使うのは蕾の状態の椿だけで,こんなにも開ききった,むしろ朽ちかけている椿など誰も見向きはしない。茶室の中だけでなく大学内でも,白から黄土色へと変わりつつある椿は,見向きなどされていなかった。
頭の中の吉田兼好が「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と話しかけてくる。そうですよね。「茶花として使えるかどうか」なんて,人間の勝手だ。蕾を愛でるのも,枯れた花を愛でるのも,どっちが偉い正しいなんてないと思うのだ。
利休の教えを書き写したとされる南方録から,「花によりてはふわふわといけたるもよけれど,本意は景気をのみ好む心いやなり」との一文。花の美しさを見せるのではなく,花を活けるその人の心構えを見せろ,とのこと。
枯れた花でも,どういう訳か,派手になる。
この茶はありや,なしや。
私は正解を示そうとしているのでもなく,ただ,問いを投げる。
遠州流が綺麗寂びなら,私は侘び派手の路線を開拓することにしましょうか。
2017/01/07 茶花には全然使えない,開ききって朽ちかけてる椿を拾ってきた。私のお茶では,あなた全然使えます。
— あまんじるな (@amnjrn) January 7, 2017
花はその後,花瓶へと。サンザシもなるべく枝を切らないように,たわわなままであるように。https://t.co/QBejaw9HVS pic.twitter.com/9a5vyf8KhX
問いの話はこちらでもしてました。
「人の言葉」を聴くこと。
今年の始まりをまだはっきりと覚えている。昨年の大晦日に書いた上の記事に,桐谷ヨウさん(id:fahrenheitize)がブックマークしてくれたのが元旦だった。(そういえばブログタイトル変わってます)
この人、好きだな。 / “いい意味で,いいときはいい。 - こ の 日 常 に 奇 跡 起 こ せ !” https://t.co/JEaVFUvoOR
— 桐谷ヨウ(ファーレンハイト) (@fahrenheitize) 2016年1月1日
そのブクマに対する私のコメント。まだファーさんって呼んでる。
RT>ファーさんが新年初ときめき。(ありがとうございます!⑅◡̈*)
— あまんじるな (@amnjrn) 2016年1月1日
夏頃,そのヨウさんに「関西行くならズイショさんにも声をかけてあげてくださいよ!」と言われ,何の脈絡もなくご連絡を差し上げたにも関わらず,ズイショさん(id:zuiji_zuisho)は会ってくださいました。もう一つ似た流れで,ズイショさんが「はせさんは」と仰っていて,そうじゃなくてもお会いしたかったのですが,はせおやさいさん(id:hase0831)にお会いできたのは,その後押しもあってのことでした。
ブログを細々続けていて良かったと感じる一年で,はてなブロガーの皆様,本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
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同時に,あの人に会ったら?って言われたとき,無理して会わないのも一つの選択なのだろうけど。不可能でない限り,目上の方に「〜〜したら?/するといいよ」と言われたことは,全て本当にやってしまった下半期だった。従わない理由を考える必要はなかった。私がしたかったことは,研究対象だろうとなかろうと,一人でも多くの興味深い人に会うことだったので。
「この人の言うことなら正しそう」とか相手で判断するのではなく,自分が従いたいかどうかを考えていたから,判断が早かったのだ。逆に自分がそうしたくないなら,好きな人や尊敬する人に何か言われても,特段従わなくていいと思う。それでうまくいかなかったら,その相手のせいにしてしまう恐れもあるので。
でも上の例で言えば,誰に言われなくてもズイショさん会いたいじゃないですか。私どんだけ初期の頃から読んでると思ってるんですか!(3年前以上から) それを後押ししてくださる言葉を聞き入れることって,至極当然だと思うんですよ。
選びたい選択肢の話は上の記事でもしていた。
選択肢の選びようが無い状況も多い中で,最初から最後まで自分で選べるだなんてことは少なく,私も予想外の連続だけど。それでも自分で選んだと思えていなければ,何かを恨んで生きることになる。逆を言うと,自分裁量だと思えてる範囲内では,幸福度は高い。
人類学がそういう手法だからっていうのもあるけど,研究の方でも,お会いしたい若手のお茶人さんのところに,次から次へと伺っていた。
それはそれはもう,私に必要な1年だった。頭の中は「自分で選んだと思っている選択がもたらした現在」と「会ってきた方々の言葉」で溢れかえっている。
来年は,「自分の言葉」が散々増えることでしょう。
皆様も,よりよいお年をお迎えください。
2016/12/31 スーパーに十二支の和菓子が1匹ずつ売ってたので,猿と酉でゆく年くる年。家にあった謎の炭と一緒に。
— あまんじるな (@amnjrn) 2016年12月31日
今年も一服ずつお茶を点て,色んな人のお茶をいただきながら,無事に終えることができそうです。またきっと良い年になるでしょう。 pic.twitter.com/NnWsdKJKQm