それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

ヨウさんとお会いしました、まとめ。

 

先月のズイショさん(id:zuiji_zuisho)だけでも胸一杯でしたが、ヨウさん(id:fahrenheitize)ともお会いしました。昔からキレッキレのチャラい人とは全く縁が無いんですけど、随分昔に変な奴がゲリラ豪雨的に通り過ぎたことがあって、パッと見爽やかだけど女の子が好きな人は、一番厄介と思っていたというか、過剰に苦手意識があったんです。(だから女の影が無さそうな人に好意的なのかもしれませんが。) ヨウさんの場合は、事前にご著書やブログで両方の側面を拝見してたので、拒否反応などもなく安心してお話できて楽しかったです。つまり爽やかな気のいい好青年でした、ということです笑

 

 

これは有名な茶人たちも言われたことないでしょうからね。一気に抜きん出ることができて嬉しいです。ヨウさんがいかに「天才恋愛コラムニスト」であるか分かったところで、ヨウさんに「伝統文化ファックみたいな人ですか」と訊かれたんですが、「そんなことは全くありません。」とワンクッション置かなくてはいけない風潮そのものはファッキンです。

自由なお茶を批判することは自己否定でしかないけれど、かといって伝統の否定の上に成り立っている自分でもない。私が毎日点てているお茶は、私のスタイルを見たときの反応でその人のスタンスを窺い知ることのできる、議論のための叩き台である。

 

上の記事にも書いたように、私のスタンスは吹奏楽部の顧問の受け売りで「サックスとクラリネットの違いも分からんようなやつを感動させることに意味があんねん!!!!!」である。もともとお茶に関心のある人達が「お茶っていいよね〜」と身を寄せ合って、それに興味を持つ(つまりもともと親和性の高い)人が寄ってくるような集まりは楽しいけど、もう充分過ぎるほど誰かがやってる。

私のすべきことはきっと、お茶に縁遠い人が何か思うお茶をすることだ。既に茶道が大好きだったり、遅かれ早かれ茶道教室に通ってただろうなっていう人達に浸かってお茶をするのは、方向性が違うように感じている。

 

上でも言ったように私のお茶は叩き台なので、人を饒舌にさせたり寡黙にさせたり、何かしらの契機になればそれ以上のことはない。押しつけがましくない形でありたいし、例えばグループやコミュニティの中に、一人「茶人キャラ」がいるなぐらいの認識でいてもらった方が、私にとって違和感がない。

みたいな私の個人的な話や、何やら真面目な話をヨウさんとしていました。話を合わせてくださったんだと思います。見た目爽やかな方と久々にお話する上で、ヨウさん以上に適した方はいなかったのでは。

 

唐突に毎日点て始めたときは、ズイショさんやヨウさんにお茶を点てるだろうなんて、当然だけど全く想像していない訳です、点て始める前から存じ上げていたとはいえ。でも結果としては、あのときお茶を点て始めていなければ、ズイショさんと宇治で会ったりヨウさんと野点してたりしてないということは、かなり確実に言える。

描きたい将来を描こうとする度に全く違う絵が浮かび上がる自分にとって、「これをするとこんな意味があるのだろう」なんて期待は全くできない。でももう臆病になって無理に意味を与えたり、大丈夫だと請け負ってもらいたがったりしなくていいのだと思う。良くも悪くも、確実なのは振り返ったときにそこにあるもの。そして今手元に残っているものは、もっと確実なもの。ようやく後ろを前向きに振り返ることができるようになったのだと思う。

元気になった状態の自分でお会いできて良かったです。

 

 

「あの点「,」はなんなの」と言われたので,初めて「、」で書いてみました。しかし無意識に「,」に変換しちゃってるので逆に「、」に戻すという三度手間を踏んでしまい,訳わからなかったです笑 この記事を書き終わった後,教えてもらった通りにキーボードの設定を変えてみたので,引き続き「,」で書いてみます。

 

人の記憶に残ることを,恐れない。

 

「自称口下手な人」とは決して寡黙な人の事ではなく,考えていることが相手に伝わっている感覚を満足に得られていない人のことだ。本当に伝わってるかどうかなんて分からないという大前提の上で,話してる自分が不完全に感じるかどうかの問題。抱えているもどかしさは,単に英語が不自由なせいだけではない。日本語も十二分に不充分だ。

具体的には,友達の前でお茶を点てていて,あなたにとってお茶とは的な質問をされて,お茶はhow to join the worldとか答えたりしたとき。How to be committed to the worldって答えた方がまだ親切だったかなと思う。問題は英語の不自然さではなく,日本語でも同じだけ抽象的なことを言うだろうということ。

 

お茶は人となりを映しまくる。毎日のお茶写真に写っているのは茶碗ではなく自分で,自撮り棒など一生いらないほどだ。その写真を踏まえた上で「人に点てたらどうですか」と言われれば,虚を衝かれた気分で半笑いになる。いかにも「一人」なお茶ですか?本当はね,毎日誰かといるし話すし,最近は意識的に人に点てにいっている。そこで冒頭に話が戻る。物質的に一人でいる訳でなくて。

人にお茶を飲んでもらった後に「あぁ粗末な茶だった」と申し訳なさに駆られる性なので,人に振る舞うことは正直避けてきた。でも美味しくないお茶を点てながら茶人を名乗ってるのは愚の骨頂なので,人に点てるごとに美味しくなっていくはずと言い聞かせて重い腰を上げる。そもそも茶人を名乗らなきゃいいだろ,っていうのはここでは議論しない。

 

後悔することが嫌いなので,結果を引きずることはあっても,過去の判断を悔いることは私自身はない。ただし,例えば相手の中に残った「あの人のお茶まずかったな」という印象は,こっちの都合では消えてくれないだろう。一人で完結していることなら,自分が後悔しなければ後腐れがない。どんな苦くてまずいお茶も,私の中だけで消化したい。私は自分のペースで,飲み干してまた生きていけるようになるから。

お茶が苦ければ苦いほど,他人は一緒に飲んではくれない。それぞれが自分のお茶で精一杯だから。悲観的なことを言いたいのではなく,最終的に這い上がれるかは自分次第だっていう意味で。

 

なんでこんな考え方なのだろうかと考えたとき,自分がずっと恐れてものに気づいてしまった。私は人の記憶に残りたくないのだ。気づくと,私の点てるお茶がまずいかどうかも相手には分からない距離を保っている。だからなのか,成り行きとはいえ,結果として節目節目で住む場所を移っている。そりゃ人生のステージによって関わる人は変わるだろうけど。

今まで見ぬフリをしてきたことを,最近は急に受け止めてしまっている。日本語で会話できる相手が欲しかったのかもしれないけど,日本語でも話したいことは結局話してないなとか。考えてることが充分に伝わってる感覚の得られる人を求めてるんだなとか。温度の同じ人と一緒にいることを欲していても,近しい人が同じ温度であることは少なかったな,とか。

 

欲しているものが分かっていて,それを近づけない/近づかない生き方で幸せになろうとするのは,あまりに遠回りすぎる。同じ温度の人を欲している場合,それ以外の人にどれだけ囲まれようと,いつまでも幸せにならないのだ。

 

「単にここじゃない場所に行くこと」は,もはや正解ではない。

今立っている範囲で手に入れられないものは,場所を動いたぐらいでは手に入らない。

 

ここで突っ立ってもいられないし,「ここ」は必ずしも現在地とは限らないから,正確には多少動くと思うけれど。場所が変わってきたことに関して全く後悔はないものの,今後はもう場所を変えるだけでは意味がない。人との関わり方を少しずつでも変えて,考えを話すことにもっと慣れる。

いくら実際の私が「まずいお茶の人」だったとしても,だからこそなおさら,昔よりは美味しく点てられるようになったお茶を,誰かに飲んでもらうべく生きた方がいい。

 

 

いつが最後でもいいように。

 

趣味を研究対象にすることについて話してたときに,自分の口からLove is different from interestと衝いて出てきた。じゃあloveかinterestどっちなのかと訊かれ,答えに窮することになる。後の会話でbecause you love teaと言われることへの違和感は残りつつ,否定もしなかったけど。

その夜に,そういえば研究対象の人達がする茶会の日程とか全然把握してないぞ,と調べてたら他にも色んな茶人が見つかって,すごいな〜だけど方向性が違う人の後追いをしても仕方ないな,とか研究に関係ないことを思いながら,日程を把握し切らないまま寝て起きたら,目覚めがいつもと違う。

あれ,お茶のこと,どうでもよくなってないか と。

 

 

私が毎日お茶を点てているのを見た人に「よっぽど好きじゃないとできないよ」と解釈されることが多いけれど,ただ好きなだけではここまで続けてこれなかった。何かを続けるということは,辞めどきの懸念が頭のどこかに常にあるということだ。たとえ死ぬまで続けると決めても,それは人間が必ず死ぬという事実が片隅にあるのと同じことというか,お茶の辞めどきについては考えなくても死ぬ時期については考える訳で。

今思ってるのは,もう今後一生お茶から離れてもいいわって思えるぐらい,今ここでお茶をやり切ろうとしてしまうこと。それくらいでないと,逆にそれ以降の人生に残るものがないと思う。その「残るもの」が,お茶に関係あってもなくてもいい。お茶は好きなんだけど…とかいう未練を残しつつ離れるぐらいなら,嫌いになるまでする。好きなら好きでいればいい。残りの期間が短いのなら,一杯一杯のお茶が惜しくも思えるし,「最後」まで走り切る気にもなる。と構えているけれど,その「最後」は意外と近いかもしれない。

そんなことを考えてたから,あんな気分で目が覚めるのだ。

 

loveとinterestが分かれてるように,感情と理性も(多分)分かれてるので,冷めようと気分が追いつかなかろうと,お茶のことを考える。お茶にも休肝日があっていいだろうに。

楽しいときだけお茶をしている訳でもなく,好きだからと単なる茶道賛美のための論文を書きはしないし,嫌いだからと批判しているだけの論文にするわけでもない。もう論文だけにしておけばいいのに,頼まれてもないのに毎日点てる。私は変な位置に立って,たまにこうして,立っているべき場所も分からなくなる。だからか(?),今日はゴロゴロと芝生でお茶をしていた。

冷めた気持ちの次に襲うのは,昨日まで好きだったものを大切にできなくなる恐怖である。大切にするってなんだろうか。そんなことを考えて芝生で茶を飲んで転がり,朝の冷めた気持ちはどこかへ行きつつある。本来なら,心の浮き沈みに合わせてお茶と付き合っていられたらそれでいい。

 

これから先,お茶がなくても今より楽しく生きていけるようになったとしたら,それはそれでお茶のおかげというか,お茶が「きっかけ」で「理由」なんだろう。そういう意味で,今後も私はお茶と生きることになると思う。

全然お茶じゃないことをしていても,どこにいても,誰といても,一人でいても。

 

 

例のごとくお茶の話ばっかりしたんですけど,比喩ですよね。